禁煙セラピー

4月17日、金曜日。

9時前起床。そこそこ早く起きたので朝食後出かけようと思って玄関を開けたら外は風があって寒かった。なので外出を止めて暖房をかけて家に篭った。

そんなわけで今日は日がな、ツイッターのフォロワーの人に薦められたアレン・カーの「禁煙セラピー」を読んでいた。夕食後には読み終わったのだけれど、皮肉なことにこれを読んで結果的に今日は煙草が増えてしまった。

著者のアレン・カーは元々会計士だったのだが多いときは一日100本、少ないときでも60本というヘビースモーカーだったのだが一念発起して禁煙に成功、それを機に禁煙のセラピストとなった。

なんで「禁煙セラピー」を読んで煙草が増えてしまったかというと、煙草の本数を減らすのは意味がないと書いてあったからなのだが、実際のところ、僕の経験から言っても1本吸ってしまったら同じというところは理解できる。つまり、所詮オール・オア・ナッシングであるということ。アレン・カーいわく、本数を減らしても苦痛とストレスが増えるだけというのだ。彼は意志の力による禁煙は無駄という。ではどうするかというと、考え方を変える、つまり禁煙を楽しむという意識改革をせよというのだが、つまりはこの本に書いてあるのは禁煙の方法論ではなく認識論であり、したがってアレン・カーは喫煙を洗脳と言い放つのだが要するにこの本に書いてあることを盲信せよというわけで、ある意味逆の意味で洗脳されるぐらい問答無用で彼の言うことを頭っから信じないと表紙に書いてあるように「読むだけで絶対やめられる」とはならないのだった。

それはちと無理。

結局アレン・カーは肺がんで死んでしまうのだが、その辺が実に皮肉というか。いやもちろん、禁煙したからこそそこまで彼は生きられたということも確かなのだろうけれど。

ただ、喫煙する者の心理という面ではアレン・カーの言うところは正鵠を射ている。つまり、煙草を吸ったからこういう利があると考えるのはすべて勘違いであるということ。つまり僕らは煙草という毒物の中毒であって、煙草を吸うための理由をあれこれと後付けしているに過ぎないということだ。実際、何の疑問も抱かずに煙草を平然と吸い続けている人はともかく、ちょっとでも禁煙を考えたり身体に悪いということが念頭にある人なら、誰でも思い当たることなのである。要するに、何のために煙草を吸っているのか、どうして煙草を吸いたいのか、そこのところが吸いながら実はよく分からなくなってくるのだった。というのも、煙草をおいしいはずと頭では思っていても実際吸ってみるとおいしくないのだから。

煙草というのは肉体的にニコチンという物質の中毒でもあるが、それ以上に精神的に強く依存する中毒で、1本吸うともう1本吸いたくなるものなのである。ただその繰り返しに過ぎない。で、夜寝ている間に煙草を吸いたくなるかというとならないわけで、要するに一日の半分は吸わなくても実はまったく平気なのだった。

で、そういうことは日々薄々分かってはいるのだった。にも関わらず、煙草を吸う方が人生が豊かになるという妄想がどうしても頭から離れない。ひっきりなしに吸いたいわけではないが、煙草を吸わないとつまらないと思ってしまう。

アレン・カーはそういった心理はすべて勘違いであるとし、煙草を吸わないということがどんなに素晴らしいことか認識すべきだと言っている。これは実に正しい。正論である。しかしながら、先日2日ばかり禁煙したときにも頭に浮かぶのは煙草を吸いたいということばかりで、禁煙している喜びというものを実感するまでに頭が行かない。それは以前4ヶ月禁煙したときもそうだった。

で、こういう認識の仕方を根本から変えないと、アレン・カーの言うように禁煙出来ないのだろうか。意志の力だけでは本当に禁煙出来ないのだろうか。世の中の大半を占める(ように思える)禁煙に成功した人々は、皆このように意識改革を行えたのだろうか。

この辺がよく分からない。僕のような天邪鬼な人間はそういう風に言われるとかえって反発を覚えてしまうぐらいで、なかなか劇的に煙草に関する認識を180度ひっくり返すということが出来ない。それもそのはずで、身体に悪いだなんだと言われ続けながら何十年も吸い続けているというのは、それなりに喫煙にもいいところがあるはずだという思い込みを繰り返してきているからだ。これをひっくり返すのは容易なことではない。つまり、禁煙するということは人生に於いて何かを捨てることのように思えてしまうのである。

これがいかんのだ、とアレン・カーは言っていて、その点は実にもっともだと思う。

彼の意見によると、僕が今やろうとしているようにちょっとずつ本数を減らしていってフェイド・アウトするというのはナンセンス、ということになる。そうなのかなあ。山崎はそうやって煙草を止めたと言ってたけどなあ。

だが確かに、1本吸ってしまうともう1本吸いたくなり、結局元に戻ってしまう。実際、今日はもう14本、現時点で昨日よりも1本多い。減るどころか増えてしまっている。それはまあ、先々週辺りと比べると3割ぐらいは本数が減ってはいるのだが、それと禁煙というのは根本的に異なる。結局のところ、どういう理由づけであるにしろ、どういう方法論を取るにしろ、アレン・カーの言うようにどこかできっぱりと吸うのを止めるしか手はないのだった。

というわけで、いつかは止めます、煙草。

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それはそうと、昨夜寝床で気づいたのだがいつの間にか(たぶんOSをアップデートしてから)、iPhoneが入力変換出来なくなった。漢字どころか濁音・半濁音すら変換出来ず。そもそも変換候補も何も表示されないのだからどうしようもない。電源を入れ直したりすべてリセットしたりあれこれやってみたのだが今のところお手上げ。音声入力でしか入力出来ない。明日サポートに電話して訊いてみようと思う。まあ基本的にカメラとしてしか使っておらず、後はWiFi端末としてちょっと使う程度で入力することはあまりないので気づかなかったのだが。

母の鼻声はようやく直った。町内の桜も大分咲いてきたので、天気予報を見て、明後日の日曜日に一時帰宅を申し込んでおいた。

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