忘却、狂風世界

10月25日、日曜日。

いつかやるのではないかと思っていたが、とうとうやってしまった。シャンプーとボディシャンプーを間違えた。身体を洗おうとして手のひらに髪用のシャンプーを出してしまった。幸いそこで気がついて髪を洗ったけれど。

昨日に引き続き、今日も夕食後の薬を飲んだかどうか分からなくなってしまった。朝食後と昼食後は飲んだ記憶があるのに、どうして決まって夕食後なのだろうか。自分が薬を飲み忘れたのか、それとも薬を飲んだことを忘れてしまったのか、どちらか分からない。いずれにせよ、僕は忘れてしまったのだった。それも二晩続けて。

夜、「おしゃれイズム」を見ていて藤木直人と上田晋也の名前が出て来なかった。慌ててヤフーの番組欄を見た。

どうして人間はこんなにも忘れてしまうのか。いわゆる老化のせいだけではなく、長期間ベンゾジアゼピンを飲み続けたせいなのか。ただ、考えてみると人間というもの、記憶している分量よりも忘れる分量の方が圧倒的に多いような気もする。少なくとも僕の場合は。高校生、中学生、小学校と記憶をさかのぼっていくごとに、僕の記憶はスカスカになる。僕の子供時代は断片的な記憶でしかない。ただ不思議なことに、大学以降の記憶はみっしりと詰まっている。結局のところ、人間がいろんなことを忘れてしまうのは脳の記憶容量のキャパシティのせいなのだろうか。ただ、「完全に」忘れてしまうことというのは実はそれほど多くないのではないか。記憶の奥底にはすべての記憶の欠片は残っていて、忘れるというのはもしかすると一時的で表層的な出来事なのかもしれない。

今日も8時台に起きたのだが眠くてしょうがない。7時間ぐらいは寝ているはずなのに。結局朝食後にソファで毛布を被って、昼まで2時間寝てしまった。これでは早く起きたつもりがほとんど意味がない。

昨夜から今日の午後まで、北海道に暴風雨をもたらした台風かなんかの影響か、風が物凄く強くて風の音がごうごうと不気味に鳴り続けた。朝珈琲を飲んでいると外で何やらスピーカーからの声が聞こえ、よく聞き取れなかったので窓を開けたらまるで空襲警報(知らないけど)のような長いサイレンの音が鳴った。あれは強風に対する警報のようなものだったのか。

3時過ぎにようやく風が少しずつ収まってきたので車でドトールに出かけた。今日は寒くて、台所にいると暖房をつけたり消したり煩わしかったので、ゆっくり本でも読もうと思ったのだった。ドトールの注文カウンターには長い列が出来ていたが、ようやくカフェ・ラ・テを手にして喫煙席に入るとそれほど混んではいなかった。

本を読む手を休めて、途中隣接している書店に本を見に行った。すると、マルセル・プルースト「失われた時を求めて 全一冊」というのが目に入り、角田光代編訳だったので迷わず買ってしまった。このやたらと長い有名な小説、あまりに長過ぎてたぶん一生読むことはないだろうと思っていた。それが角田光代で抄訳になっているのだから見逃す手はない。帰宅後にアマゾンのレヴューを見ると、どうやら角田は翻訳ではなくリライトということらしいが、そんなことはどうでもいい。長い長い原作を読んだ人の中には、こんなの「失われた時を求めて」ではないという人もいるだろうが、大体において僕が小学生のころに読んだ少年少女向けの世界文学全集は全部抄訳であり、似たようなものだった。読みやすく読み切れる分量であればいい。いくら好きなものでも、ひとつの料理を延々と果てしなく食べ続けるよりも、いろんなものをちょっとずつ食べ続けた方がいい。少々妙な理屈だけれど。

今日は風の音が不気味だったが、まだ10月だというのにとにかく寒くて参る。夜は暖房オン。明日は病院で悪性リンパ腫の予後検査。

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