境界

実際のところ、とても眠いのだった。今。現在ジャストナウ。それに僕はとても疲れている。かろうじて髪が乾くまでの間、こうして日記を書いているが、本当だったら眠いので明日の朝書きます、と言いたいところだ。

Anton Webernという現代音楽の作曲家を聴きながら書いている。精神を患っているせいか、最近になって、現代音楽、特に前衛を聴くことが多くなった。現代音楽、それも前衛となると、普通に難解でもしくは不快な音楽、という印象があるかも知れないが、実際はそれなりにひとつのトーナリティ(調性)で作られているので、それほど難解というほどのものではない。中には音楽としてとても美しいものもある。これがミュージック・コンクレートというほとんど実験の世界になるともう訳が分からないが。いずれにしても、現代音楽には感情を一切排斥している部分があるので、ある種のセンチメンタリズムに拘泥したくなかったり、無心になりたいときはいい。

造影剤はどうやら明け方に排出活動に入ったらしく、5分から10分おきに僕はトイレのために起きなければならなかった。おかげでちっとも眠った気がしなかった。そんなこともあり、朝からダルくて調子がよくないな、と思った。首もちょっと痛かったので、一応痛み止めを飲んでおいた。昨夜からとにかく疲れてるな、という印象だった。それは今日になってもちっとも抜けていない感じがした。それでも習慣というか、一応業務には行ったのだが、やっぱり体調著しく悪く、昼過ぎには帰途に就いた。それでも売れない風俗嬢ぐらいの時給は得られた。気分が悪く、結局午後は2回に分けてほとんど寝ていた。なかなか気分の悪さは取れなかったが、夕方6時ごろに2回目の昼寝から目が覚めるころにはようやく取れたものの、何故か両肩が凝っていた。いろんな夢を見た。何故か時代劇の夢まで見た。今日の気分の悪さは、いつもと違ってなんていうか、もっと身体の奥から来る、病的なものに感じた。つまり、自分は病気なのだ、という風に思わせるものだった。孤独死、という言葉が頭をよぎったりした。なかなか疲れは取れなかったが、夕食後にギターを一通り弾いていたらいつの間にか肩凝りは取れた。それから何もする気が起きず、ソファに寝そべって目をつむって音楽を聴いた。アンドレ・プレヴィンを聴いていたのだが、順番的に次にアニタ・ベイカーに移った。どうやら僕は夢と現実の境目にいたらしく、例えば、ワゴンの上にはジンジャーエールしかないのに何故か湧いた薬缶があるような気がして手で触ったら熱くてすぐ手を引っ込めたが、現実にそこには薬缶は存在せず、従って自分が本当に手を伸ばしたのか定かでない。たぶん僕は譫妄(せんもう)状態で、現実と夢の区別がつかず、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしてたんだと思う。僕はとても疲れていたし、眠ってしまっても構わないように毛布を掛けていた。そんな風にして音楽を聴くのは案外と心地よいものであったが、ある瞬間から急に辛くなった。苦しいのではない。辛くなったのだ。僕はとても眠く、そして疲れていた。重い腰を上げて湯船に湯を満たして入り、ベッドを作り、こうして日記を書いている。

本当のところ、僕らは夢と現実と、どちらの世界にいるのだろうか。どっちでもいいような気がする。それは実はたいして違わないような気がするから。例えば今日、Facebookである女の子がもうFacebook止めます、という書き込みを見た記憶が僕にはあるのだが、たった今確認したらそんな痕跡はなかった。しかしもし確認しなかったら、僕はその子がFacebookを止めたと思い込んでいただろう。

困ったことに、今ごろになって眠くなくなってきた。ま、どうせ本を2・3ページ読んだら寝てしまうだろう。

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