晩夏の挽歌

8月18日、金曜日。

蝉の鳴き声も夏の終わりを告げているように聞こえる。確かにあのクソ暑い夏は過ぎ去りつつある。

バブルのころに環八の用賀のインター付近にあった、イエスタデイズとかプレストンウッドとかからもう随分遠いところに来た。もちろん駒沢通りのウィングスからもだ。時間軸としてもパースペクティヴとしても。あのころの店も、20代だった僕も、確かに存在していたのかさえ怪しくなっている。あまつさえ、僕は生まれる前には存在していなかったのだ! なんてこった。

夏の終わりを意識し始めると、オートマチックに雪に閉ざされる冬が近づいている気がする。もちろん気がするだけなんだけれど、少し涼しくなってTシャツ1枚でちょうどいい陽気になって、蝉の声を聞きながらもう冬のことを考えるなんて。つまりはようやっと僕もこの山形の人間になろうとしているということなのかもしれない。さすがに5年目ともなるとクソ暑い夏と雪に閉ざされる冬のローテーションが身に沁みてくる。それもそのはず、考えてみれば冬だけは4ヶ月もあって1年の3分の1を占めているのだから。それ以外の季節はただ通り過ぎるだけのように思える。しかしながら、毎日は束の間の集積で出来ている。僕らは常に束の間を生きている。

なんで起こされたのかというと、来週の月曜日にごみ当番なので裏の人が箒を持ってきたのだった。そんな風に、それなりに寝たはずなのだが、業務から帰宅した午後になってまた昼寝しまくる。例によって相場のチャートの上下にアラートを置いて寝たのだけれど、まず1時間ぐらい寝たところでガスの集金に起こされた。普通ならそこで起きるはずがあまりにも猛烈に眠かったのでまたベッドに潜り込んでしまい、立て続けに二度目の昼寝。目が覚めてみるともう5時近かった。で、相場のチャートを見ると、寝ていた間に見事にドル円が下がっている。なんていうか、昼寝している間にすべての物事から取り残されたような気分だった。

それでもそこから気を取り直してそれなりにトレードをやったつもりではあるし、夜になってからも指標後にそれなりにやったつもりになっていたのだが、実際は大した回数はやっていなかった。

開け放した窓から虫の声がサラウンドで聞こえてくる。相変わらず夜になると右目が見えにくくなるが、どうやらドライアイっぽい。それにしてもなんで右目だけなんだろう?

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