完璧な憂鬱

11月25日、土曜日。

浦和レッズ、ACL優勝おめでとうございます。コレオは凄かった。びっくりした。一体誰があんなものを考えて、あんな風にちゃんと作り上げるのだろう? 正直言って、武蔵浦和に住んでいるころにがらがらの京浜東北線で若い浦和サポーターが二人、大股を開いて座って五人分ぐらいの席を占めているのを見て以来、浦和レッズというチームは好きじゃない。槙野がいくらいい選手であろうが、なんかうざい。そういうことを踏まえても、今日は浦和を応援していた。ラファエルシルバのゴールは凄かったし、興奮した。そして、前述の素晴らしいコレオを作るぐらい浦和サポーターの結束力や熱意というものは凄い。しかしながら、もちろんごく一部ではあるが、どちらかというと他のチームのサポーターに比べて、浦和のサポーターには狂信的でタチの悪いのが多少多い。気がする。僕の偏見かもしれない。

生まれて初めてJリーグの試合を見に行ったのは、Jリーグが発足して2年目、94年のヴェルディ川崎対清水エスパルスの試合だった。まだ若かった三浦カズの胸板の広さにびっくりした。もうひとつ僕が驚いたのは、清水のサポーターだった。試合のスコアは忘れたが、確かヴェルディが勝った。試合後、等々力競技場の外で、数少ないアウェイの清水サポーターが横断幕とかゲートフラッグとかを粛々と畳んでいた。それを見て、わざわざ静岡から来たのか、凄いなあと思ったのだった。彼らのその姿には、驕りみたいなものも、敗者の惨めさみたいなものも一切感じなかった。ただなんていうか、凄くちゃんとしてるなあと思ったのだった。上手く言えないけど。

その点、一部の浦和サポーターには真逆の驕りや傲慢さというものを感じるのだった。それはツイッターのタイムライン上でも見受けられる。だがそれは僕が鹿島を応援しているというバイアスがかかっているせいかもしれない。単に僕の勘違いかもしれない。ただ確かにちょっと勘違いしている輩はいるのだ。たぶんどのチームのサポーターにも。恐らく浦和のサポーターはその他のチームのサポーターよりもちょっと目立つのだ。それは単純に絶対数が多いからということもあるだろう。

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それはともかくとして、今朝は9時17分に目が覚めて起きようとしたのだがワープして、10時37分起床。結果7時間半寝てしまい、昨日の8時間睡眠→7時間睡眠シフト説は脆くも崩れてしまった。朝食後玄関の鍵を開けようとすると、郵便受けにガスの明細書が入っているのに気づいた。鍵を開けて外を見ると、雪は中途半端に積もっていた。道路は雪かきをするほどではないが、門までの飛び石が隠れる程度の雪は積もっていて、その上にガスの集金に来たと思われる足跡が転々とついていた。そして、玄関先にカレンダーが置いてあった。それで、ああ集金に来たのはいいけれどまだ寝ていると思って明細だけ置いて帰ったのだなと思い、恥ずかしくなった。一応飛び石の上を中心に玄関先だけ軽く雪かきをした。

で。

今日一番驚いたのは、朝PCの電源を入れていつものようにツイッターのタイムラインを見て目に飛び込んできた、「柴崎、真野恵里菜と真剣交際「アモール」結婚視野に1年前から遠距離愛」というニュースだった。柴崎はもちろん僕の一番のお気に入りのサッカー選手である柴崎岳である。で、真野恵里菜って誰? という感じだった。ハロプロもよく知らないし。記事を読んでググったりして、彼女が「逃げ恥」のやっさんだということでようやく分かった。あああの子かと。柴崎は以前は桐谷美玲と噂になっていたので、このニュースは意外だった。で、改めていろんな写真を見ると真野恵里菜というのは実に容姿の整った、ほぼ完璧な美女である。最初に報じた前述のスポニチの記事でも「美男美女」と書いてある。確かに最近のサッカー選手のカップルには美男美女が多くて、例えば長谷部夫妻とか柿谷夫妻とか、それにこの柴崎と真野の組み合わせもそうだが、娘が出来たら(長谷部には既にいる)どうやっても美女になるだろうと思う。息子はどうやってもイケメンになるだろう。

で、昔書いた「完璧なカップル」という文章を思い出した。要するにどこからどう見ても完璧なカップルというのは、それが故にどこか憂鬱であるというような文章なのだが(改めて読み直すと自分で言うのもなんだが面白かった)、今回の柴崎と真野の組み合わせはちょっと違うかなと思った。

という具合に、前述の文章に出てくるような、何をやってもサマになって絵になってしまうような、憂鬱なカップルにはならないだろうという気はする。

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また日記に戻る。今日は結果的に雪は降らなかった。雨少々。午後業務。なかなか使えそうなのだがいまひとつツキが中途半端だった。で、夜は冒頭に書いたACLの決勝を見る予定だったので、いつもより早く、4時過ぎに母のところに行った。

すると、母はホールのテーブルの自分の席で、うつむいて手元をぼんやりと見てじっとしていた。それは何かに耐えているようでもあり、何かをじっと待っているようでもあった。たぶん、何かが通り過ぎるのを。その母の姿を見て、ああ母は毎日日中はこうしてずっと何かに耐え続けて、何かを待ち続けているのだなと思った。胸を衝かれた。母の姿に本当の憂鬱を見た気がした。しかし、僕に一体何が出来るのだろう? 僕はいつものように母を部屋に連れて行き、それから手を繋いで空いているホールを3周歩き、部屋に戻ってベッドに寝かせて浮腫んだ左足をマッサージする。それから何かしらどうでもいい話をする。結局僕に出来ることはそれぐらいしかないのだ。一体どうすれば完璧な憂鬱から母を救い出すことが出来るのだろうか? 少なくとも、それ以上にさらなる憂鬱をもたらさない、ということぐらいでしかないのか。それはつまり、僕の憂鬱でもあるのだ。

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