幸せってなんだっけ?

2月16日、金曜日。

先日見終わったばかりだというのに、性懲りもなくまた「JIN -仁ー」の完結編を最終話まで見て、またボロ泣きした。そして、胸が一杯になった。そしてふと、これが幸せというものなのかなと思った。正直なところ、この歳になって、というかこの歳になったからだろうか、近ごろは幸せというものがどんなものなのか、それはどんな姿かたちをしてどんな風に在るのかしばしば分からなくなる。もしそれが、いわゆるところの「リア充」みたいなものであるならば、僕にはたぶん永遠に訪れないだろう。幸せが相対的なものではなくて、絶対的なものであるならば、それはこんな風に胸が一杯になることではないだろうかと思った。万感胸に迫るというけれど、もしそういうものであるならば、それは滅多に訪れないものだ。この場合の幸せとは、それに気づかない幸せではなくて、気づく幸せということだけれど。どっちにしても、気づかなければ幸せじゃないか。

最近とみに二十歳のころに付き合っていたレミを思い出す。そして、二十歳のころのレミに会いたいと思う。今考えると、レミは僕のことをそれほど好きではなかったんじゃないかと思う。それは別れてから十年後に六本木で会ったときにもそんな風に思ったし、何かちょっとしたことを思い出すたびに実はそうだったんじゃないかと思い当たる節がある。だがしかし、二十歳のあの夏、クソ暑い飯田橋を黄色いTシャツを着てそこら中の会社に飛び込み営業のバイトに回りながら、僕はずっと無我夢中だった。しかしながらそういう感覚はなかなか思い出せないし、むしろほとんど忘れかけている。ただひとつ確実に覚えているのは、レミと生まれて初めてのキスをしたとき、煙草の味がしたということだ。あのとき、レミは煙草を吸っていたから。

僕が持っているレミの電話番号は、20年くらい前の、しかも固定電話の番号だ。考えてみるとレミが結婚してなんという姓になったのかも知らない。どっちにしてももう繋がらないだろう。グーグルでレミの実家の住所を検索しても見つからないから、実家の電話番号も繋がらないだろう。もしかしたらヨウタロウが知っているかもしれないが、どっちにしろ繋がったとしてもそれは二十歳のレミではないのだ。

誰かが僕を今日思い出す確率は、誰かが僕を忘れている確率よりもずっとずっと低いだろう。ましてや、誰かを僕が思い出したときに、その誰かが僕を思い出すことなど、奇跡のようなものかもしれない。僕がちょっと不思議に思うのは、僕が確かに幸せだったと思えるときを、どうして僕はしっかりと思い出せないのか、むしろ何故常にはほとんど忘れているのかということだ。

なんで幸せを忘れちゃうんだろう?

つまりそれは、幸せというのは常にリアルタイムである、ということなのだろうか。だからすべての幸せは過去になってしまうのか。人生のように。

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世迷言を書いた後に、一応日記らしきものを。

どういう加減なのか、昨日今日と4時間ワープする。何故4時間という時間が僕の人生からオミットされてしまうのか、皆目分からない。朝食を食べていると、ちょうどうちの前を除雪車が通る音がする。10時過ぎなどという中途半端な時間に除雪車が入ること自体が珍しいし、それに今朝というか今日は雪が降っていない。とまれ、朝食後に外に出てみると、うちの前の道はようやく綺麗に除雪されていた。

昼過ぎまで相場のトレードをして、一息ついたところで隣町に買い物に行った。

帰宅後、特養に電話を入れて、5日振りに母に面会に行った。相変わらず静養室でソファに並んで座るので、なんていうか、なかなか母の顔を覚えていられない。こういう感覚は毎日面会に行っているときはなかった。

その後夕方までまたトレード。今日は一応それなりに一日の目標額には達し、結果的に今週は全勝だったんだけれど、今日の痛恨事はまたしても利食いを待てなくて150ピップス取り逃がしたことだ。逃げた魚は本当に大きい。夕食後オリンピック少々。その後は冒頭に戻る。

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