欠落

3月22日、木曜日。

8時59分と、久しぶりにぎりぎりではあるが8時台に起きた。昨夜就寝時になんだか暑い気がして、一番上にかけている毛布を上半身だけめくったのだが、するとまず最初に5時台、次に7時台、8時台とそれぞれ目が覚めたがそのたびに夢を見た。久々に早起き(当社比)したものの、眠くて結局午前中に1時間昼寝してしまう。とはいうものの、早く起きると煙草のペースが半端なく、例によってツイッターで本日のルールとして煙草は何本吸ってもオーケー、30本到達してもオーケーと宣言したものの、途中でこれは本当に30本到達しそうだと。相場のポジションを持っている間はどうしてもストレスで煙草を吸ってしまう。で、結局待ち切れずに夕方利食いをちびるという同じパターン。ほとほと勇気がない。ことあるごとに勇気がないと書いているが、それはすなわち自信がないということだ。今の僕に決定的に欠けているのは、何よりも自信なのではないか。そして、自信というのはある意味勘違いということでもある。つまり、これでいいのだと思い込むことであるから。

思い込みには波があって、一日の中でも波があるし人生の中ではもっと遥かに長いスパンで波があった。考えてみれば人生のほとんどの間、僕は自信というものを持ち合わせてこなかった気がしないでもないが、業界の現場にいる間(それでも20年ぐらいある)はそれなりに自信を持っていた。どこでその転機が訪れたのか境界は曖昧だけれど、最初の転機はスタジオの現場に入ってすぐに、生来の人見知りする性格ではとてもやっていけないということに気づき、無理やりずけずけと物を言う人格に替えた(あるいは装った)こと。以来、こいつは図々しい奴だと思われるようになり、仕事がしやすくなった。二度目の転機は、スタジオの中で自分でキューを出してディレクションをするようになったこと。それまでは半信半疑だったのが、やり続けているうちにいつの間にか自分のスタイルというものが出来上がり、出来上がった音が客観的に比較してもかなりいいということに気づいてそれが自信になった。その辺の自信というかある種の勘違いは、モバイルコンテンツ・プロデューサーをやっている間ぐらいまでしばらく続いた。なんだかんだ言って、人間勘違いしてられる間がそこそこ幸せなんじゃないかと。

逆の意味での転機、つまりすべてを失ったのが悪性リンパ腫になって抗がん剤治療で完全寛解と言われた後だった。そこである日僕は物凄く自分の人生に対して客観的になり、うつ病になってからいかに自分の人生を無駄に過ごしてきたのかということに気づき、まさに唖然とした。しかしながら気づくのがあまりにも遅かった。もう既に僕は50歳を過ぎていた。

どうもあれ以来僕は自信というものをすっかり失ってしまったような気がする。お蔭で、ただでさえない勇気がことさらに滅多なことでは発揮できないようになった。言い方を変えれば無謀になり切れなくなった。結局のところ、どこかで無謀にならなければ勇気なんぞ持てない。そして今の僕に欠落しているのは、そのたまさかの勇気の持続性というわけである。

今日はアマゾンのプライムビデオで山田洋次監督「隠し剣 鬼の爪」という映画を見た。なんていうか、最近は時代劇を見るのがちょっとマイブーム(死語?)。松たか子がやけに綺麗に見えた。

そういえば今日は夕方にサイレンが聞こえてなんだろうと思ったら、どうやら火事だったようだ。その後のサイレンの鳴り方からして恐らくボヤ程度だろうけど。今日はただの一歩も外に出ていない。

夕方母のいる特養に電話してみたら、ようやく明日から面会制限が解除になるということ。今回は長かった。これで少しは一日のリズムを取り戻せるか。

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