4月29日、日曜日。
暑かった。日中の最高気温は28度。そんな中をダウンベストを羽織って業務に出かけてしまった。帰り道は車のクーラーを入れて。
9時半ごろに固定電話が鳴って目が覚めた。いつまで経っても鳴りやまず、受話器を取りに行ったが取った瞬間に置いてしまい切れてしまったので二度寝したものの9時46分起床。結局あの電話はなんだったのか。うちの電話は古過ぎてナンバーディスプレイもついてない。
— Sukeza (@anykindoflove) April 29, 2018
今日はなんかの集まりである女の子が歌うことになり、するとその女の子が指名して俺が男性パートを歌うことになるという夢を見た。譜面を見ると単純にハモるのではなく難しかった。しかしあの女の子が一体誰だったのか、さっぱり分からないところが夢っぽい。
— Sukeza (@anykindoflove) April 29, 2018
夜はヘタフェ対ジローナの試合をDAZNで見たが、案の定柴崎は4試合連続で出場なし、このところのサッカーに於けるストレスはいまだに続いている。
そんなわけで夜、Netflixオリジナルドラマの「ナルコス」をシーズン2まで見終えた。パブロ・エスコバルが遂に殺されるまで。エスコバル編、メデジン・カルテル編を全部見たことになる。
Netflixオリジナルドラマ『ナルコス』、シーズン2の最後、とうとうエスコバルが殺されるところまで見た。それにしても慈悲の欠片もない話。これがすべて実話であるということの救いのなさ。そして、この陰惨で無残極まりない話を無茶苦茶面白いと思って見てしまうのは何故なんだろう?
— Sukeza (@anykindoflove) April 29, 2018
面白い海外ドラマによくある人の命を一顧だにしない冷酷非情さ、それによって誰かが殺されるのが無残であればあるほど快哉を叫びカタルシスを覚えるというのは、一体なんなのだろう? 人間が本来持つ因業のようなものなのだろうか。そして、見ているうちにああこいつが殺されればいい、などと思ってしまう。つまりパブロ・エスコバルの冷酷さ、残虐さは僕らが日常的に持ち合わせているものなのではないか。何かひとつ間違えれば、誰しもが踏み越えてしまう可能性があるものなのでは、などと思う。「ナルコス」で描かれている1980年代から90年代にかけてのコロンビアは本当に酷い世界だが、それが果たしてコロンビアという国の国民性であるのかというと、たぶんそうではない。その証拠に同じような麻薬戦争がメキシコで起こっている。ブラジルのギャングを実話を元に描いた映画「シティ・オブ・ゴッド」も本当に酷い話だった。結局のところ、一番冷酷で残忍なのはやはり人間なのだ、ということになる。そんな風に考えると、原罪という言葉がすうっと浮かび上がってくる。もちろん本来の原罪の意味はアダムとイブの罪であって、意味が違うのだが。いずれにしても、悪しきものは人間の中にある。それも常に在る。そんな風に考えるしかない。
とにかく「ナルコス」で描かれるコロンビアのカルテルの暴虐ぶりは凄まじいものだった。ここはカリ・カルテルを描くシーズン3に進むのではなく、当初ゴールデンウィークにもう一度見直そうと思っていた「JIN -仁ー」を見ることにするか。そう、もう四度目になるんだけど。