喪失

1月12日、金曜日。

9時42分起床。朝方寒くて何度か目が覚める。昼過ぎまで雨。夜から本降りの雪。日中業務少々。

辛い。とにかく毎日が辛い。日々自分の弱さ、臆病さと向き合わなくてはならない。一体何を怖がっているのか、ふと考えると、要するに何かを失うのが怖いのだ。「何か」とはそのまま「何か」で、ありとあらゆるものである。何かしらを失うのが嫌なのだった。

ところが僕らは日々何かを失っている。例えば若さとか体力とか、お金とか。エトセトラ、エトセトラ。昨日Netflixで「侵入者たちの晩餐」という映画を見たが、要するに何かを失ってもその分何かを得られればチャラになるから(そういう映画だった)、そういうチャラになる、あるいはむしろトータルプラスになると思えればそれでいいのだが、現実はなかなかそうもいかない。

結局、終わりよければすべてよしなのだろうか。ということは、終わりが悪ければ最悪ということに……いや、やめておこう。こういう考え方がよくない。しかし、我々は常に途中経過を生きているとは言える。大概のハッピーエンドの映画や小説でも、途中経過は散々で最悪だったりする。だからこそハッピーエンドにカタルシスを覚えるのだ、的な。しかし、散々酷い目に遭ってから何かを得るのでは、結局のところ得られるまでの人生があまりに酷くはないか。トータルでちょっと損してはいないか。などと。

これまでの人生でことごとく選択を間違ってきたという感覚があるので(つまり毎回後悔し続けている)、若いころは年を取ったらもうちょっと楽観的になるのでは、などと思っていたが実際は逆だった。むしろもっと臆病に、小心になっている。

ただ、なんでもかんでも失ってばかりではないはずだ。例えば昨日だったか一昨日だったか、YouTubeでドラムのミヤザワにギターが上手くなったと褒められた。そういえば若いころよりも最近書く曲の方がよくなっているような気はする。つまり、気がつかないうちに身についているものもなんかしらはある。ただ、それになかなか気がつかない。失っているものばかりが目についてしまう。これは心理的なものなのか、それともフィジカルやマテリアルなものなのか(つまり本当にそうなのか)、その辺が微妙である。

OK、我々は日々何かを失っている。一方で何かを得ている。問題は足し算したときにどうかということだ。……そりゃあ分からないな。失っているときに足し算するか、それとも得ているときに足し算するかで変わってくるし。

今日は特老の担当職員から連絡があって、母が午後入浴後に嘔吐したということだった。もうそれだけで気が気ではない。つまり、常に足し算なんかやってられないということだ。

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