Led Zeppelinとウィトゲンシュタイン

Led Zeppelinを聴くとほっとするのは何故だろう。たぶんそれは、70年代に青春時代を過ごした僕らにとって凄く分かりやすいからだ。彼らの発するメッセージ(ときにはこれカッコいいだろ、という程度のものだったりする)はストレートに僕らの心に届く。要するに共感だ。

さっきまで柄にもなくフレーバー・ティーなんぞを飲みながらオーストリア出身の哲学者、ウィトゲンシュタインの記事を熱心に読んでいた。以前、zentaさんがウィトゲンシュタインをコメントで引用していたこともあり、何か、たぶんツイッターだと思う、再びその名前を目にして、一応頭に入れて置こうと思ったのである。こんな風に僕は気が向くと、極度に難解な理論を展開するいわゆる天才学者の生涯を読む。もちろん、ウィキペディアに書いてあるぐらいの要約では彼らの理論はさっぱり分からない。ちんぷんかんぷんである。が、大概の場合そういった天才というのは実に奇矯な生涯を送っていて、それがどこか自分とリンクする部分があったりなかったり、いずれにしろそういった人間そのものが興味深い。ウィトゲンシュタインは突然ノルウェーの山に篭ったり、兄弟のほとんどがうつ病で自殺したり、自身も自殺願望に生涯悩まされた。彼は生涯を独身で過ごし、同性愛者だったという噂もある。いずれにしてもなんかの拍子に突如としてどこかに引き篭もって孤独の中に閉じこもる。なんか、行動範囲に友達どころか知り合いの一人も存在しない、今の僕の孤独とどこか共通点はないか、などと考えてみるが、僕の場合は自ら進んで孤独になったわけではなく、気がつくとこうなっていた、という感じなので彼ら天才たちの孤独とはもちろん異なる。考えてみれば自伝にも書いたけど、これまで僕は、うつ病が酷くなるまで、若いころからやたらとモテた。村上春樹の小説の主人公みたいに2年間で50人以上の女の子と寝たりもした。そのつけが回ってきたのだろうか? まあでも結婚して浮気もせず、至極真っ当な人生を送ってきた人たちは、僕ぐらいの年齢になったらとっくに夫婦間の性交渉はないだろう。ただのセックス、という点だけに焦点を絞れば、今の僕の孤独というものは彼ら真っ当な人間たちが抱えるものとそれほど違わない。不思議なことに。

気がつくと長文になってるぞ。これは日記なのだった。今日はなでしこの試合が夕方の4時半キックオフという中途半端な時間なので早めに帰宅した。が、やっぱり痺れてきて不安感があったので、田舎の母親と電話で話していたら、そのうち言葉を思うように発することが出来なくなった。喋ろうと思っても言葉が出ない。言葉が思い浮かばないのではなく、それを口にすることが物凄い重労働になってしまった。案の定、試合が始まってから具合はますます悪くなり、意識も朦朧としてきて酷い状態に。そんなわけで試合のちょうど真ん中の1時間は眠ってしまった。その後、夜になってまた痺れてきたが、新しい頓服のセパゾンを飲んだらなんとかマシになった。少しは効くようだ。明日は医者に行かねば。ちなみに試合は1-0でなでしこがオーストラリアを下した。

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