確かに状態は悪いのだけれど、我ながら最近の自分の日記のつまらなさには唖然としているところ。記憶も曖昧だし日本語も怪しいしボキャブラリーも貧困の極み。まあ実際、ほぼ何も起こらない日常を送っているので必定こうなる。単に引き籠って煮詰まっているだけなので。
朝の4時ってことでW杯の決勝を見るのはとうに諦めている。近頃ようやく朝まともに起きられるようになってきたので、ここでまたリズムが出鱈目になっては困る。
今朝も睡眠ちょうど6時間、7時40分に目が覚める。涼しい一日だった。というか、午後になって数日前のようにやたらと寒く感じてソファで毛布を被って1時間半ばかり昼寝をしたのだが、室温は26度あった。どうやら感覚が馬鹿になっているらしい。
今日もオープンダイアローグを念頭に置いて夕食後に母のところに行ってみたのだがやはり母の感情が不安定でダメ、言うことも微妙に辻褄が合わない。それでいてときおり現実を正確に把握しているようなことをぽつりと口にしたりするのでどきっとする。オープンダイアローグどころか、僕の方が不安定になってしまって泣きそうになってしまうのでいけない。
山形の実家に戻って一年半、考えてみると友人に会ったのは父の位牌を頼んだ隣町で仏壇屋をやっている高校時代のバンドのボーカルだけ、地元(町内)の友人とは会うどころか電話ですら話してない。というわけで夜になって小学校中学校と一番仲がよかったマキヒデアキに電話してみようと電話帳を開く。しかしどういうわけかマキの電話番号が載っていない。同じテニス部だったタダハルの名前があったので電話してマキの番号を聞いてかけてみた。で、久しぶりに電話で話す。昔一度マキの家に遊びに行ったことがあったが、マキによるとどうやら僕が松任谷の事務所にいたころらしい。とすると話すの大体は20年振りということになる。狭い町だし、傷害事件として新聞に載ったので当然知っているだろうと思いきや、僕の父が亡くなったこと以外、マキは何も知らなかった。彼は同じ町内で引っ越したそうで、ただそう言われても以前遊びに行った彼の自宅がどの辺にあったのか、全然記憶にない。久しぶりに話すので少々舞い上がり、どうも後になって思うといらんことまでべらべらと喋ってしまったような気もするが、少しだけ肩の荷が降りたような気がしないでもない。そのうち会おうということになり、携帯の番号を教えあった。マキは髪も薄くなって随分と老けたという話だが、声の印象は若かった。しかし、僕の記憶にあるちょっとハスキーなマキの声とは若干印象が異なっていた。人間の記憶なんて所詮怪しいものである。いろんな同級生の話になったが、名前を聞いてもまるっきり覚えていないという人間が多い。最後に中学の同級会に出たのはやはり20年ぐらい前だと思うが、その場にいたのも女子一人ぐらいの名前しか出て来ない。10人ぐらいはいたはずなのだが。まあ大体において今日の午前中何をしていたかも怪しいぐらいだから当然なのか。
今日はいろいろと昔のことを思い出した。スポーツ紙のサイトを見ていて新田恵利の名前を見て、そういえば昔尾崎亜美の曲でレコーディングしたような気がするなあと思ってウィキペディアを見たらやはりそうだった。そこから始まって、初めて仕事でレコーディングした曲が南野陽子の「悲しみモニュメント」であることを思い出した。それが1月15日の成人の日、今はなき信濃町のソニースタジオだった。曲は鈴木キサブローで、出鱈目な英語で歌うデモテープの歌声とかも思い出した。で、当時南野は都倉俊一の事務所でマネージャーは僕と同い年のF米だったな、とかまで思い出す。ユーミンを除いて一番売れたのは荻野目洋子の「六本木純情派」かもしくは1986オメガトライブの「君は1000%」(I泉さんの曲だ)だと思うのだが、結局のところアイドルやニューミュージック、つまり今で言うところのJ-POPを毎日レコーディングしていたころはあまりに数が多過ぎて曲名まで覚えているのはあまりない。そんなこんなで、ツイッターにはツイートしてしまったけれどここに書くのははばかられるようなことまでいろいろと思い出す。気がつくと業界時代の知り合いとは皆疎遠になってしまい(というか僕から連絡を取らないのだが)、僕にとってあの時代というのはなんだったんだろうかなと思う。まあいずれにしても、あっちにふらふら、こっちにふらふら、根なし草のように生きてきた。過去も現在も曖昧な人生。
マキに会うのが楽しみだ。少しはこの閉塞感から抜け出すことが出来るだろうか。少なくとも、なんでも話せる友人が近くにいるのといないのとでは随分違う。特にこういう田舎では。
ちと気になるのは煙草の本数が一定量に達すると喉がつかえるような気がすること。それ以前に10本目ぐらいになると舌とか口の中が荒れてくるので、恐らく胃が荒れているのだと思う。