ゴジラ

というわけで、午後隣町のシネコンに行って「GODZILLA ゴジラ」を見てきた。劇場で映画を見るのは20年振り。隣町のシネコンは8つのシアターがあり、個々のシアターは小ぢんまりとしていていざ映画が始まると僕の記憶の中にある映画と比較してスクリーン小さくて暗いという印象。子供のころ見た映画のスクリーンがデカい印象が残っていたので。で、始まって40分ぐらいしたところで突如中断、何事かと思ったら落雷で停電とのこと。15分ぐらいで復旧したが真っ黒に日焼けしたいかにも田舎のおっさんが「ゴジラが電線を噛み千切った」と嬉々としていた。

それはともかくこのゴジラ、予告編を見ただけで何の予備知識もなく見たのだが、てっきり初代ゴジラのリメイクだと思い込んでいたのだけれど途中で敵役の怪獣が出てきて唖然、なんですか?感全開。準主役の渡辺謙演じる科学者が途中でさしたる根拠もなく言ったまんまの結末になってちと拍子抜け、全然怖くなかった。ただ敵役も含めて怪獣の人間と比して絶望的に強い感というのは出ていて、よってそれに相対する人間の無力感というものもあるにはあった。この、絶望的に強い感じを「恐怖の大王」として描くかそれとも「神」として描くかというところを、てっきり僕は前者としてシリアスで怖い映画にするものとばかり思っていたのだけれど、ことゴジラに関しては両方取ってしまおうという欲張りな筋書きが結果少々中途半端な感じになってしまった感。神頼み感凄い。そういう意味では「大魔神」的なところも感じられた。全体の筋立てとしては「ゴジラ×〇〇」という造りそのまんまになっていて、その点では日本の怪獣映画に近かった。ただ、「恐怖の大王」的視点で作ればかなり怖い映画に出来たと思うので残念。敵役の怪獣いらなかったんじゃないかな的な。とはいうものの、ゴジラを「神」的な視点で描いてヒーローにするというところも捨てがたかったんだろうなとは思う。そうするとこういう筋書きになってしまうのは仕方ないのかもしれない。ただ欲張った分ディテイルを描けなかった感じは強く、ウィキペディアの渡辺謙の話によると撮影直後は4時間ぐらいの長尺であったらしく、編集した結果消化不良な中途半端な感じになってしまったのかも。いずれにしても「ショーシャンクの空に」のフランク・ダラボンも脚本に名を連ねているわりには脚本の練り込みが甘い感じは否めず。みんな「ゴッズィーラ」と呼んでるのに渡辺謙ただ一人「ジラ」と頑なにかつあっさりと言っているのが印象的。「ゴッズィーラ」じゃないんだよ的な。

今日は午前中から昨日ほどの蒸し暑さではなく、シネコンから出るときもさぞ外はあっついんだろうなと思って外に出たら風もあってそれほど暑いと思わなかった。ただ室温は30度を超えていて気温自体は2度ぐらいしか違わなかったので、昨日とは不快指数が違ったのだろうか。

3時過ぎに寝たのに8時15分起床で多少睡眠が足りない感じで朝からダルく、結局午前中からまたソファで昼寝していたところ叔母が米を持って現れて起こされた。玄関先に出ると顔を見るなり「大丈夫?」と聞かれたのでよほど酷い顔をしていたのだろう。実際、例の目の下のクマといい、このところのやつれ感凄いし。

映画の帰り道にようやく1000円カットで髪を切る。帰宅して夕飯の支度でもしようかとぼんやりしていると中学の同級生であるマキヒデアキから携帯に電話があり、これから寄ってもいいかと。そんなわけで夕飯は後回しにして茶の間にクーラーを入れて待っているとすっかり老け込んでおっさんになったマキがやってきた。20年振り。老け込んだのはお互いさま。7時近くまで話す。いろんな同級生の話が話題に上ったが、名前を聞いてもワンクッション置かないと思い出せない名前が続出。かなり忘れてる。思うに、印象の悪かった奴ほど覚えていて、さして害のない人間ほど覚えていない。皮肉なものである。

マキが帰ったタイミングで母のところに。今日の母は比較的表情もよく落ち着いていた。この表情がいいってのは母の場合凄く重要。統合失調症は顔に出る。悪いときは顔つきが違う。

夜は相場。今夜は米の雇用統計だが思い切り裏目った。ただ抜け方によっては多少なりともプラスで抜けられたのに欲こいて失敗。考えてみれば週末、そういう意味では大失敗。これを書いている現時点で裏目ったポジションをまだ決済しておらず事態は悪化の一途、これを見守ると眠れないので決済するか週をまたいで持ち越すか悩んでいるところ。


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