3月2日、月曜日。

ようやっと髪を切った。たかが3・4cm(少なくともそうオーダーした)切っただけで随分と印象が変わるものである。長髪寸前のところまで来ていたので、昭和初期の書生みたいな雰囲気が普通のおっさんになったという感じ。ともあれうざったかったのでしょうがない。髪を切っている間、膝の上に切った髪が大量に溜まるけれど、それを見たら随分と白髪があって結構ショックだった。確かに最近鏡を見ると以前は目立たなかった白髪がちらほらと見えるようになったとは思っていたのだが、改めてここんところ老け込んだなあと思う。まあ白髪というのは個人差があるので、そう大騒ぎするほどのものではないと思うにしろ。放っておいても人間というのは着々と歳を取る。

朝は7時台に目が覚めて、何度寝直しても5分おきに目が覚めてしまうので、諦めて8時過ぎに起きた。なので睡眠は足りない。後で気づいたのだが今日はプラスティックごみの日だったので、どうせならもっと早く起きてごみを出せばよかった。

朝から昼過ぎまでは雪、午後からは晴れ。朝食後に相場の指値をして、今日も業務に行ってみるがいまだに不ヅキの循環から抜け出ることは出来ない。というか、現状を勘案するとやらない方が無難なのかなあとも思う。帰りがけに1000円カットに寄って前述のように髪を切り、帰宅後は夕方までコタツで昼寝。

夕食後に母のところに。食堂(ホール)には大きなおひなさまが飾ってあった。母は今日も基本的にはいい顔をしているものの、昨日のように少しずつ以前の顔つきに戻ったり。それで今日気がついたのは、一昨日から母の顔が別人のようによくなったと思ったのは、母が笑顔を見せるようになったからだということ。自然に笑うようになった。母が笑顔を浮かべるとほっとする。今日の母は歩かせるとやたらとふらついた。そういえば昨日看護師が血圧が高かったと言っていたので、何か関係あるのだろうか。その辺は心配。

母のところから帰宅して夜は相場。夕方成立した指値は甘くてストップを食らってしまい、その後指値を置き直して最終的にはなんとか一日トータルでプラスには持って行ったものの、今見ると結果的にはまたちびって早く決済し過ぎて失敗してしまったようだ。その辺は結果論だからしょうがない。

というわけで、クッツェー「夷狄を待ちながら」読了。南アフリカの作家クッツェーはノーベル文学賞を受賞しているし、この作品もアマゾンのレビューで非常に評判がよかったのだが、僕にはどうも消化不良な感じだった。まず訳が大時代的で古臭い言い回しが多くて気になった。タイトルの夷狄(いてき)なんてのもそもそもそうだが。文章も話も具体性を欠いているわけではないのだが、ひとつには時代設定と地域設定がはっきりしない(したがってイメージしにくい)というこもあるのだけれど、全体のプロットの流れがどこか観念的な印象でそれが物足りなかった。主人公に降って湧いた悪夢のように通り過ぎたから騒ぎの話であるといえなくもない。読み手の好みもあるだろうが僕には主人公に感情移入出来なかった。それが出来ないとカタルシスも得られない。そもそも夷狄というのがある種象徴的な存在であって、具体性を持って溜飲が下がるような話ではなかった。この象徴的な部分によるこの小説の持つ神話性、それが評判のいい要因だと思うのだけれど、僕には逆にそこが合わなかった。


夷狄を待ちながら (集英社文庫)

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