死の棘

今日も空は晴れ渡っていた。が、例によって精神的体調が悪く、業務を昼過ぎに止めて帰宅の途に就いた。帰路に母親から電話がかかってきて、父が「自分は今日死ぬ。俺にはそれが分かる」と言いだして泣いていて、僕と話がしたいというので電話が父に代わったが、ろれつが回らなくてよく分からなかった。ただ、僕のことが心配だ、というところだけは分かった。また母親に代わったので、悲観的になっているのも情緒不安定になっているのも抑うつ状態だから安定剤のデパスを飲ませるように、それから医者に連れて行って点滴をしてもらうように、と伝えた。帰宅して、当たり前だがやっぱり気になる。父の発言は妄言だと分かってはいるが、もしホントだったら、とか考えてしまうし、とにかく気が滅入る。よって頓服を飲んでソファで毛布にくるまって2時間ほど眠った。途中、母からの電話で起こされ、血圧が下がっていて今点滴を受けている、という報告を受けた。目が覚めてからもなんかいたたまれない。親に「自分は今日死ぬ」と言われて気にならないわけがない。自宅でじっと連絡を待っているとひたすら気が滅入るので、駅前まで歩き、下見を兼ねて少々業務をして気を紛らわせる。その後、再び母から電話があり、点滴中に心電図もとった、ということだった。駅前のなか卯で牛丼の夕飯を食べ、帰宅して音楽をかけながらソファに寝転がってしばらく呆然としていたが、やっぱりいたたまれなくて頓服を飲んで寝ようと試みた。しかし、1時間半経っても眠れない。何度も携帯に手が伸びたが、あまり定かではない理由でなかなかかけられない。9時ごろにようやく電話してみたら、父は落ち着いたということで、母親の方が疲れてもう寝る、ということだった。それで僕は気分転換に24時間営業のスーパーに行き、わりとどうでもいい食品をいくつか買った。以前日記にも書いたことがあるのだが、臨死体験した僕の経験から言って、人間は死というものを認識できない、よって、「死」というのは主観的には存在しないも同義で、客観的にしか存在しない、と思っている。つまり、死が訪れるのは常に自分ではなく他者である、ということだ。もちろんこれは机上の空論、もしくは詭弁であると言われてもしょうがないが、僕らは常に脳というフィルターを通して世界を主観的に認識、見ているわけだから、まんざら的外れというわけでもないだろう、とは思う。だがしかし、現実問題として自分の親に「今日自分が死ぬのが分かる」と言われると、特に僕のような病気の人間にはひどくこたえる。「死」という言葉が棘のように刺さる。これを書いている今はシャワーを浴びた後でようやく(精神的に)人間として活動できるレベルになった、というところなのだが。

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