I am not Sam

7月17日、金曜日。

やっぱり朝方肌布団だけでは寒くて目が覚めて、羽毛布団をかけて二度寝。日中は暑かったが夕方以降外気温はそれなりに下がったのだけれど、あまり風がなくて湿度が高く、台所は蒸した。夕方までは相場。どうにも落ち着かない相場に振り回されながらもなんとかついていったのだが、最低限といったところ。週末だからあまり無理しなかった。

早めに夕食を済ませて特養に行き、次の月曜日に母の一時帰宅を申し込んだ。月曜日、つまり20日は三連休の最後でもあるが、僕の誕生日でもある。それに天気予報では雨が降りそうにない。ただし、暑くなりそうだけれど。母は相変わらず落ち着いていて、表情や顔つきだけ見る限りではすっかりまともに見える。ただ、話をすると何かと覚束ない。

夜、huluでジェシー・ネルソン監督の「アイ・アム・サム」を見ていると携帯が鳴った。僕の携帯は本当に滅多に鳴らないのでちょっとびっくりする。久々に弟からだった。明後日母のところに来るかもしれないということだった。月曜日に一時帰宅させると告げると、天気によって考えるとのこと。弟は何も用件がないと電話してこない。恐らく、世の中のほとんどの人がそうなのだろう。日中は仕事で人と散々話しているし、帰れば家族がいる。僕のようにひとりぼっちで暮らして、別に用件はないけれど誰かと話したいからということで電話する人間はたぶんあまりいないのだ。

「アイ・アム・サム」、なかなかいい映画だったけれど、正直こういった知的障害のある人を主役にした映画はどちらかというと苦手。見終わったあとでシャワーを浴びながらふと考えると、7歳の知能しか持たない人間がどうしてアパートに住んでいられるのか、それに引っ越しまでできるのか、外出恐怖症の女性は一体どうやって生活しているのかなどと整合性というか、疑問点はある。僕の性格からして、小説を読んでもそういった整合性とかリアリティに拘る傾向があるのだけれど、ドキュメンタリーやノンフィクションでもない限り映画は所詮おとぎ話、あら捜しをしてはいけないのだなと思う。ディテイルのリアリティばかり追求するのはどうにも窮屈だ。大体において、人生だって似たようなものじゃないかと。

今日は昼寝せずに済んだがその分煙草が増える。夜母のところから帰宅後に頭痛、アドヴィルを飲む。それはそうと、安倍が新国立競技場の建設案を白紙に戻したのにはちょっと驚いた。よほど支持率の低下を気にしているのだろうが。

忘れるところだった。今日は千葉の詩人であり博物学者でもあるtakちゃんが入籍したとの知らせ。誰かが幸せになるのは嬉しい。彼とはネットで知り合ってもう10年以上になるけれど、不思議なことに一度も会ったことがない。

結局のところ、日々毎日世の中は紆余曲折に満ちている。何もないと思う日は、ただ自分がそれに気づいてないだけなのだなと。

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