週末の孤独

8月28日、金曜日。

毎朝風邪気味なので昨夜から羽毛布団にタオルケットを追加。するとそれが功を奏したのか朝、いい感じの夢を見て目が覚めると今日は頭痛はしなかった。時計を見るとまだ7時半前、トイレに立ってそういえば今日はゴミの日だと思いだし、そのまま起きて朝食後ゴミを出す。考えてみれば当たり前のことなのだが、朝目が覚めて頭痛がしないというのはいい。

午前中は様子見のために相場に手を出せないと思ったので、久しぶりに業務(とは名ばかりの遊び)に行ってみるが案の定無駄足。昼食後、もとより覚悟はしていたが眠気がやってきたのでソファで昼寝。1時間半ちょっと。いかにも夢らしい支離滅裂な夢を見る。悪夢のような、そうでもないような。昼寝から目が覚めるとかえって憔悴して力が入らなくなり、まるで低血圧のように気分が悪くなった。気つけにコーヒーを飲んで血圧を計ってみると、むしろ普段よりちょっと高いぐらいだった。コーヒーで上がったのだろうか。

その後は相場。方向性にはある程度自信はあったものの、結局のところいつ入るかというのが問題なわけで、夕方になるに連れどんどん含み損が膨らむとそれに比例して自信もなくなってくる。夕方プラスに転じ逃げるタイミングはあったもののすぐにマイナスに戻り、結局目をつむってポジションはそのままにして母のところに行く。相場のポジションを含み損を抱えたままにしておくと、ストップに引っかかるのではないかと気が気ではない。母のところにいる間も気もそぞろになってしまう。これではいけない、腹を括らなければと思うもののまだまだ修行が足りず腹が据わらない。母は記憶やらなにやら何かと覚束なく、日一日と年老いていく感じがする。

帰宅すると相場のポジションはストップに引っかからず生き残り、プラスに転じていたのでせこく利食い。結局のところ方向の読みは当たっていて、そのまま保持していれば大きく利益が伸びたので結果的にはチキンで失敗したと言えなくもないが、週末でもあり無理出来なかった。チャートを見ているといつまでも相場の動向が気になり、ああすればよかっただのこうすればよかっただのとうじうじ考えてしまう。なので、たまたまテレビでやっていた映画「テッド」を途中から最後まで見る。典型的な(下品な方の)アメリカンコメディだったが、こういうある意味くだらない映画を見るのも週末の夜であればいいのかなと。その後もどうしても相場が気になってしまうので下手にポジションを取ったりしたら大変なのでチャートを閉じてギターの練習を少々する。

外は雨、窓を開けるととんでもなく寒い。週末の夜が更けていくとどうにも孤独感ばかりが募り、何をしていいものやら分からなくなってくる。ひとつには今読んでいるジュノ・ディアスの「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」がどうしても入り込めないというせいもある。いずれにしても、何か「豊か」で「建設的かつ生産的」な過ごし方はないのかと考え込んでしまう。この、考え込むという時点で既に煮詰まっているのだ。常に自分に対して否定的な自分がいて。もちろん、たまには好きなようにだらだらと過ごしてもいいと思うのだが、どうも精神的にそういう余裕がないし、そもそも「好きなように」過ごすということ自体を見失っている嫌いがある。

かように僕は考え過ぎるのである。それは今に始まったことではなくて、考えてみれば子供のころからそうだった。過ぎたるは及ばざるが如しなのか、それとも考えるベクトルの問題なのか。

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