2月21日、日曜日。
ドラマ『白夜行』、最後まで一気に見た。たまらん話やった。長い長い、あらかじめ定められた破滅の話。この結末、原作とは違うよね? 確か。
— Sukeza (@anykindoflove) February 21, 2016
悲惨な話である。このドラマを途中で一度頓挫したのは、あまりにも酷いことばかり続いて希望がなく、屍姦のところで耐えられなくなったからだが、その救いのなさは最後まで続く。最後の最後、歩道橋の上で武田鉄矢が語るところでようやく少しばかりの救いが垣間見えるところが見事といえば見事だった。
正直話自体はかなり無理があって、ディテイルのリアリティは無茶なレベル。しかしこういうドラマはリアリティや整合性がなくても力技で見せてしまうものなのだなと思った。
村上春樹の「1Q84」とかもそうだけれど、こういう小学生のときの初恋を何十年にもわたってそれこそ生涯想い続けるというのはいささか現実的ではないのではないか、無理があるのではないかと思うのだけれど、よくよく考えてみれば僕自身、高校生のときに生まれて初めて付き合った子が小学校で初めて恋心を抱いた初恋の人で、あれから何十年も経った今でもまだ会いたいと思う。そういう意味では生涯引き摺る(幼いころの)初恋というのもまんざら非現実的な話ではないのかもしれない。ただ連綿と、誰と付き合っているときでも片時も忘れないというのは現実的ではない。人間はそういう風には出来ていないと思う。
原作を読んだときの記憶が曖昧なのだけれど、原作はもっと淡泊な書き方だったように思う。正直言って東野圭吾に関しては留置場で読んだ「新参者」と「麒麟の翼」の印象もあっていささか過大評価されている作家という印象が否めず、筆力に関しては少々疑問を抱いているのだが、もう一度原作を読み直してみてもいいかなと思った。
しかし武田鉄矢って凄い役者だなと改めて思った。あまりいい印象を抱いていなかった山田孝之もちょっと見直した。個人的には西田尚美が好き。凄い美人じゃなくてああいうタイプが好き。
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午後、ニシダのうちのすぐそばの洋菓子店に茶菓子を買いに行こうと思い、ついでにニシダのところに遊びに寄ろうかと電話してみたが繋がらなかった。日中ノートPCの動作が物凄く遅くなって固まり、強制的に電源を落として立ち上げ直したらどうやらWndowsの更新をバックグラウンドで行っていたためだったようだ。しかし、バックグラウンドで更新するたびに固まるのでは、相場の決済のタイミングとかでやられるとかなわない。それでそろそろノートPCを買い替えようかと価格コムを見て危うくポチりそうになる。それがたまたまヒューレットパッカードのノートだったので、ドラムのアキヤマがHPに勤めているので社販とかで安くならないだろうかとダメ元で携帯に電話してみるがやはり出ず。アキヤマは基本的に携帯に電話しても出ない。実際、なんのための携帯かよく分からないのだが、一度だけ出たときはかえってびっくりしたほどである。
こうして友人二人に電話してみたものの繋がらなかったことで、昨日の日記にも書いたように世の中から友人というものが消え失せたような、実は彼らは最初から存在していなかったのではないかというような不安に駆られる。そうすると電話というものが怖くなる。もしかしたら誰に電話しても誰も出ないのではないか、「そして誰もいなくなった」というようなことなのではないかという不安。もちろんこれは馬鹿げたアイデアというか妄想なのだが、抑うつ状態が続いている近ごろ、こういう極端な孤立感に苛まれる。つまり裏を返せば、世の中のありとあらゆる人にとって僕という人間は存在していないのではないかという感覚。これもある種の被害妄想なのだろうか。