ふきのとうも芽を出し

3月30日、木曜日。

何やら夢を見て朝目が覚めたら9時、よし起きようと思った瞬間に次の夢に突入していた。サンドウィッチショップの店先に並んで順番を待っていた。前の人が注文している間にメニューを見て、2つほど目安をつけて自分の順番が回ってきてそれを注文するとないという。しかも両方ともないと。もう一度メニューを見るとさっきあったサンドウィッチがない。一体これはどういうことかと憤然としていると目が覚め、10時17分になっていた。結局昨日と大差ない。

朝食後、玄関の鍵を開けてついでに外に出てみると家の中よりも暖かいので驚いた。この山形の片田舎の町も知らぬ間にもう春になっている。これは暖房をつけて家の中に閉じ籠っている場合じゃないんじゃないかと思ったが、じゃあ春になると一日中外にいればいいのかというとそういうわけでもない。午前中から例によってちまちまと相場のトレードをやっていたのだが昼頃にやっぱり眠くなって少々昼寝。午後トレード再開もひと段落ついたところで方向性もよく分からなくなったので、久しぶりに散歩に出てみることにした。

散歩に出る前に庭先をぐるっと一回りしてみる。すると、ふきのとうがたくさんあった。確かにもう春なのだ。

中学のとき、在校生代表で答辞を読むことになり、母がその原稿を書いてくれた。その書き出しが「ふきのとうも芽を出し」だった。そこだけ覚えている。僕は心の中で「ふきのとうも芽を出し」と何回もつぶやいた。

散歩と言っても特にあてはない。ひとまず家の右手の方に歩いて、うちから二番目に近い寺(うちの周りには寺が四つある)の脇を入ってうちの向かいの寺の裏に出て、そのまま母のいる特養の面している道に出た。

夕暮れが近づいていた。なんだかパット・メセニーの昔のPVに出てきそうな風景だ。スーパーまで歩こうかとも考えたが、特に買うものもないのでうちの町内会をぐるっとまわってくる。トータル30分程度の散歩。戻ってすぐには家に入らず、向かいの寺の境内に腰を下ろして煙草を一本吸った。寺の境内の景色は、僕の子供のころの風景と不思議なくらい変わらない。しかしサイズ感だけが違う。子供のころ夕方5時に鐘をついていた鐘楼は昔よりも一回り小さく見える。もちろん、鐘楼が小さくなったわけではなくて僕の方が大きくなったのだ。

夕食前に母のところに行ってまた足をマッサージして、母を連れて隣のホールを5周歩いた。夜は夜で腹筋を少々。そういう意味では今日は何かと身体を動かした方になる。明日どっと身体に来るかも。

手帳に書いた今日の予定は「台所の片付け」だけ。一応午後にテーブル周りを片付ける。なんでかっていうと、例の音楽を教えて欲しいという生徒(なんだかこう書くと奇妙な感じだ)を教えるとしたら台所しかないからだ。一番楽器を置いてあるのは書斎だが、如何せんベッドを置いて布団を敷いているので。

昨夜久しぶりにコメントをもらったので夕方返事を書いた。まだ知らない方が継続的にこの日記を読んでくれているというのは、なんだか不思議な感じがしないでもない。以前とは違って、もう本当に滅多にコメントなど来ないので。今考えると、うつ病がもっとも酷くて薬漬けになっていたころ、毎日のように常連の読者からコメントをもらっていたことが実に不思議に思える。彼らは今、どうしているのだろうか。

それはそうと、昨夜作詞家の及川眠子のツイートで、シンガーの菅井えりが昨年末に亡くなったことを知った。僕の現場の最初の仕事が彼女のファーストアルバムのレコーディングだった。僕がその仕事を引き継いだN田も10年以上前にまだ40代で亡くなった。いろんな人が少しずついなくなっていく。僕がいなくなるのは最後だ。僕の世界では。

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