7月1日、土曜日。
ジョージ・オーウェル「一九八四年」読了。
ジョージ・オーウェル『一九八四年』読了。読んでいて後半の展開はキューブリックの『時計じかけのオレンジ』と同じじゃないかと思ったが、バージェスの原作は1962年、むしろこのオーウェルの小説がディストピア小説としてのプロトタイプになったのだろう。救いのない話になるのはある種の必然。
— Sukeza (@anykindoflove) July 1, 2017
『一九八四年』、基本的には美しい文章でリーダビリティも高く、したがって面白く読めるのだが結末があまりにも暗い。後半は陰鬱になるのみ。最後の附録はむしろ蛇足のように思え、作者の自己満足的な代物に思える。その点、解説でトマス・ピンチョンはもっと楽観的な解釈をしている。救いと見ている。
— Sukeza (@anykindoflove) July 1, 2017
『一九八四年』、面白いのは、本来饒舌でスラップスティックな小説を書くトマス・ピンチョンのあとがきがまるで論文のようになっていることだ。これはオーウェルがその附録を付け足して自身の構築した世界をより裏打ちしようと試みたように、この小説の論文性を示しているように見える。
— Sukeza (@anykindoflove) July 1, 2017
ディストピア小説といえば、ウエルベックの『服従』も最後には屈服するという点でどこかオーウェルのプロトタイプの幻影が見える。つまり、ディストピア小説にはハッピーエンドはありえない、ということも出来る。そうじゃなければディストピアにならないから。
— Sukeza (@anykindoflove) July 1, 2017
ディストピア小説に於けるハッピーエンドとは、つまりディストピアに希望を見出すわけだからディストピアに屈服する、取り込まれることに他ならない。つまり構造的にハッピーエンドはアンハッピーエンドであるという宿命を背負っている。
— Sukeza (@anykindoflove) July 1, 2017
ちなみに「一九八四年」は1949年の作品である。しかし、この全体主義に支配される近未来を描いた小説が何故トランプ政権が誕生した途端にベストセラーになったのか、よく分からない。オーウェルの描くビッグ・ブラザーとイングソックの持つ完璧性と、トランプの欠点だらけのお粗末な政治力ではまるで相容れないように思えるからだ。
現実の1984年に僕が何をしていたかというのは、以前のfragmentsに書いた。
今日は何も予定のない土曜日であるというのに迂闊にも8時47分に起きてしまった。こういうときはまず例外なく、午前中に何をしたらいいのか分からなくなる。朝食後、玄関の鍵を開けようとして郵便受けに町報と回覧板が入っているのに気づいた。それで回覧板を裏の人に回そうと外に出ると、玄関先に猫がいた。
回覧板を回そうと外に出たら玄関先に猫がいて、すぐに逃げる素振りがないのでしゃがんで呼んでみたが一向にこっちに来る気配がない。近づくとやっぱり逃げちゃう。回覧板置いてきて戻るとやっぱり玄関先の植え込みに頭を突っ込んでいるので呼んでみたが庭先に逃げちゃった。
— Sukeza (@anykindoflove) July 1, 2017
この一件でまた猫飼いたい病がぶり返してしまった。しかしネットで山形の猫譲ります的なサイトを見ると、どれも物凄くしちめんどくさい条件(例えば自宅を拝見させてもらいますだの、定期的に写真を送ってくれだの)がついていてすぐにめげる。
多少の眠気もあるし、案の定午前中は何をしたらいいのかさっぱり分からないし何かが出来るような気もしない。そんなわけで結局10時半過ぎに業務に行った。他に出来ることが思いつかなかった。昨日が薄気味悪いくらいツイていたので今日はどうかと思ったら、案の定というか、実に中途半端なツキだった。初当たりは軽いのだが確変が続かない。そんなわけで苦労したということもあるが、なんていうかこれでも昔はプロだったのだというところを(自分自身に)見せようという気持ちになって5時間も粘る羽目になり、それなりに格好はついたのだが何しろ冷房ががんがんに効いていてGジャンを羽織っていったものの身体が冷えて寒くてしょうがなかった。なので、今日の日中がどれぐらい暑かったのかは分からなかった。帰りがけ、久しぶりに図書館に寄って角田光代「笹の舟で海をわたる」を借りた。
夜になって雷が鳴ってるなと思ったら、土砂降りの雨が降ってきた。これを書いている今、もう3時近いがようやく小降りになったところ。って、えっ、3時近い? また夜更かしをしてしまった……。