元日

あけましておめでとうございます。

雨の元旦。静かな朝だった。昨夜は眠くて1時過ぎには寝て、今朝は8時に起きた。午前中、寺に年始の挨拶に行き、父の一周忌を雪が融けてから4月にやることを打ち合わせ、お茶を一杯飲んでとっとと帰ろうとすると住職が追いかけてきて、檀家から事情は聞いているが、僕の精神的な部分が心配だから無理しないようにと言われた。田舎は何かと筒抜けである。

弟と昼食を済ませ、二人で母の病院へ。今日も母は口が回らず、何を喋っているのか聞き取りにくい。まさか後遺症ではと凄く心配になったのだが、起きていたかと思うとすぐに寝てしまうことの繰り返しで、どうやら半分寝惚けていたようだ。だが、なんとなくここ数日調子が悪そうに見えてやはり心配ではある。弟は病院から直接仙台へと帰っていった。

そんなわけで帰宅するとまた僕は一人ぼっちになった。するとまた不安感がやってきて、夕方に1錠、夜に1錠、安定剤のレキソタンを飲まざるを得なかった。やはり夜になると煮詰まってしまう。年が明けたからといって、その辺が急に変わるわけではない。当たり前だ。暦の上で12月31日が1月1日になったからといって、都合よくフェイズが変わるわけでもない。結局のところ、年が改まるというのは気分の問題なのだな、と思う。そしてうつ病というのは気分障害なのである。

今日も夜はスポーツバラエティを見てみたけれど、一人では集中出来ない。元日というのはこれといったニュースもなく、所詮収録のテレビのバラエティ特番ぐらいしか話題がないことはツイッターを見ていても分かる。後は何を食べたかとかそれぐらい。テレビをちらちらと見ながら、鍋をシャカシャカと振ってコーヒーの豆を炒る。

なんだかただひたすら時間が過ぎるのを待っている気がする。僕のこのところの懸念というか、いつもどこかに引っかかっているのは時間だ。時間とは何かとか、時間の一方向性とか、長く感じたり短く感じたりするという、アインシュタインの相対性理論みたいなことばかり考える。それは本質を考えているようであって、実は巨大な雑念であるように思える。

問題はどこで気分が改まるかということなのだが。

初夢に期待するのもリアリティがない。ナンセンスだ。となると、自力で強制的に改めるのか、それともどこかのタイミングでオートマティックに変わるものなのか。そして、それが時間というものなのか。

恐らく僕は考え過ぎなのだろう。寺の住職が言うように、無理をするべきでもないのだろう。ひたすら何かを乗り越えるだけのようだった去年、敢えて僕が何かを得た、学んだとすれば、それは諦念だろうか。で、たぶん今の僕に一番必要なものも諦念なのかも知れない。一言で言えばレット・イット・ビー。だがそれが実は一番難しい。何故なら、そのためにはどこか楽天的になる必要があり、それは今の僕と一番遠いところにある。少なくともそう思える。つまりは、今の僕は自然体というものを見失っていて、それがどこにあるのか、どういうものなのか見つけられないからだ。困ったものである。

元日から左目にチックが出るなんて。まったく人間の精神というものは厄介なものだ。今の母の元気のなさも、多分に病気から来る精神的なものだと思う。

それでも今日はいいアルバムをひとつ発見。「Return of the Headhunters」。素晴らしい。

今日は終日雨だったけれど、予報によると明日は吹雪、また予報が外れてくれないかな。


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