9月1日、金曜日。
9時15分起床。
終わった……。二日続けての大敗。それもやらなくていい時間帯からのやらかしで。これは取り戻すのに一カ月はかかる。ちと気が遠くなる。もうダメかも。二日合わせてほぼこれまでの一日の最高負け額に近い。それにしてもなんでドテンができなくなったんだろう……。確かにヒントはあったんだがなあ。またルールをひとつ増やして、次に生かすしかない。
9月1日、金曜日。
9時15分起床。
終わった……。二日続けての大敗。それもやらなくていい時間帯からのやらかしで。これは取り戻すのに一カ月はかかる。ちと気が遠くなる。もうダメかも。二日合わせてほぼこれまでの一日の最高負け額に近い。それにしてもなんでドテンができなくなったんだろう……。確かにヒントはあったんだがなあ。またルールをひとつ増やして、次に生かすしかない。
8月31日、木曜日。
8時42分起床。歯が痛くて目が覚めた。激痛ではなくて鈍痛ではあるが、歯が痛くて目が覚めるというのはなかなかに最悪なものだ。朝食後、久しぶりに頭痛薬のアドヴィルを飲んだらいつの間にか治まった。
昨日が昨日だったから、午前中からへろへろではあったが、なんとか気を取り直して業務。ところがこれが最悪の選択をしてしまい、結果的に二週間積み上げてきたものを吹き飛ばしてしまった。久々の大敗。途中、このラインを割ったらポジションをひっくり返す、というポイントはあったのだが結局ドテンできず、そのまま見守る方を選んでしまった。月末だし体調もよろしくないので休むことも考えたのだが、前向きに考えた上での大敗。とはいうものの、案外楽しかった。想定を間違えたのは仕方ないが、途中で修正できる可能性があっただけに残念ではある。これでまた取り戻すのに二週間はかかるだろう。今日の反省点としては最終的にポジションが大きくなり過ぎた。この辺はルールを決めないと。最近は意図的に損切りを置かないでポジションを持っているが、それ自体はそれほど悪くない。その方が気が楽だから。問題は対応力。
その後指標後にちまちまとスキャルピングをしたが、やはりこっちの方が性に合っていそう。だが問題は裏目ったとき。
8月30日、水曜日。
10時19分起床。
夕食後、凄まじい希死念慮に襲われる。先日、最上川に飛び込みたいと思ったときよりも酷かった。ソファで安定剤を3錠舐めた。だがもう精神的にはほぼほぼ崩壊していて、まったくの廃人と化していた。気がつくと片目をつむっている。ああ、そういえば随分昔にこんなことになったこともあったと思い出す。何もかもどうにもならない気がした。こういうときは少しでも身体を動かした方がいいと思い、ふらふらと台所に行って珈琲の生豆を煎った。少なくとも火を使っている間は死ぬわけにはいかない。
なんとかかんとか煎り終わると、米経済指標の時間になったので、朦朧としながらポジションを取った。何故か指標の結果と逆行した。だが痛みは感じない。すぐにもうひとつの指標があり、今度は順行してすぐに利食い、夕方にひとつ損切りしていたのでトータルなんとかプラスに。しかし、人間としてまったく機能していない状態でもトレードってできるんだな。
その後夜の散歩に幽霊のような状態で出てみる。いつも4分のところ、5分かかった。空には朧月。煙草屋のベンチで一服したが、何も考えられなかった。
安定剤を3mg飲んだせいなのか、いまだに頭も身体も茫洋としている。もう何も残されていない気がする。さしたる感情すらない。ただわずかに煙草を吸おうという気持ちだけが残っている。ということは、欲望はまだ残っているのか。
もうチャートは閉じよう。顔に表情がないのが分かる。
8月29日、火曜日。
10時8分起床。なんだかんだいってまだ日記の形式を取っている。
今日は具体的には書けないがちと失望することがあって、改めて幸せとは日常の中にしかないのではないか、という思いを新たにした。僕らは常日頃、非日常の中にこそ幸せがあると思い込み、それを追い求める。しかしそれが何故幸せに見えるかというと、まだ手に入っていないからである。実際問題として手に入ってしまえば、それは日常の一部になるか、あるいはちょっとした思い出になるだけである。ということは、日々満たされないと思っている間、ぼんやりと手に入らないものを頭に描いている間に、ある種の象徴としての幸せとして見えるのであって、いざ手に入ってしまうとそれがあれだけ狂おしいほど希求していたものにはもはや見えない。それはもはや日常の一部に組み込まれる。
ということは結局、自分では悶々として生きている日々の日常こそが実は幸せというものなのではないか、などと思えた。というか、実は幸せというものはその程度のものなんじゃないかと。実際問題として危ないドラッグとかをやらない限り多幸感というものは長続きしない。万が一多幸感が延々と続いてしまったら、それはもう廃人である。
とまあ、要するに日々満ち足りた生活をしている人はともかく(満ち足りた生活とはそもそもどういうものだろう?)、何かが足りないからこそ期待というものが存在するということは間違いない。で、恐らくその期待というものが幸せの重要なファクターなのではないかなと。
なんか当たり前のことを書いてしまったな……。
8月28日、月曜日。
11時29分起床。また音が鳴る夢を見た。実に珍しいことだ。どういう夢かは忘れてしまったが、毎日見る夢の中の音はほとんどが漫画の中に書かれた擬音のようなものなので、いわゆる音程がある音として認識できることはほとんどない。何故最近になって夢の中で音が鳴るようになったのか、思い当たる節はまったくない。
別に毎日書かなくてもいいんだ、と考えると多少気が楽になる。また、別に面白いことを書く必要がないということも。日々鬱屈して途方に暮れていることがほとんどなので、そもそも面白いことが書けるわけがない。最近多いのは何をしたらいいのか分からなくなるということだ。別に認知症的に分からなくなるとかそういうことではなくて、要はモチベーションがなさ過ぎてすることが見つからないということである。今日も夕方早々に業務でチビって利食いしてしまったので、その後することがなくなって途方に暮れた。
で、結局は早めに夕飯を食べることにして、隣町の龍上海の冷やし中華を食べた。
夜、久しぶりに裏の通りを歩いて町内会を一回りする格好で散歩をした。いくらなんでも体力が落ち過ぎているので、いつもなら煙草屋のベンチまで歩いて一服して帰るだけのところを、もうちょっと歩いてみたのだった。空には中途半端な月があった。それにしてもこの町は静かだ。たまに通る車の音以外は虫の声ばかりが聞こえる。印象としては町の半分は眠りに就いている。そんなに早く寝てどうするんだろうと思うが、考えてみれば自分もすることが思いつかなくて歩いている。習慣というのは厄介なもので、いまだに早く寝ることに対して罪悪感がある。ちょっと損するような気もしないではない。今日のように昼近くに起きたときはなおさらだ。
厄介といえば今日スタンドでガソリンをちょっとだけ入れたら、それからエンジンの警告灯が点くようになってしまった。以前も一度、買ったばかりのときになったことがあり、修理屋の話によると確かコンピューターの読み込みのエラーだったような。恐らく致命的なエラーではないので走る分には問題ないはずだが、やはり警告灯が点いているのは気持ち悪い。明日も点くようならディーラーに見てもらわないと。
8月27日、日曜日。
10時ジャスト起床。
どうにもよろしくないのは、夏バテは夏バテだと思うのだが書斎のソファに寝転がる癖がすっかりついてしまったこと。このままだと起き上がっている体力すらなくなってしまうのではないかという危機感を覚える。
そういえばそのソファで昼寝していて、珍しく音の鳴る夢を見た。ヤマザキが曲を書いてきたという夢で、それは明らかに音が鳴っていた。ところが結構複雑な曲なので、とても覚えてはいられなかった。モチーフのひとつでも覚えていられたら曲作りに生かせたかもと思うのだが。
そんなわけでほぼ一日ソファ近辺でうだうだしていただけで何もしていなかったのに等しいが、ちょっと思いついて制作中の曲の続きを8小節ぐらいは書いた。
夕食時に気がついたのだが、今日は台所でも窓を開けていると風が入ってきて、これまでと比べると若干涼しくなった。もう8月も終わりに近いので当たり前だとは思うが。
ところで、そろそろこの日記も日記として書くのをやめようかと思っている。というのも、そもそも書くこと自体があまりなくなっているし、自分で読み返すこともない。日記として書いておくと便利なのは後で検索すると何がいつ起こったのか分かることだが、それはそもそも何らかのことが起こったときである。備忘録を兼ねて、ひとつの習慣として毎日ここを更新しては来たのだが、書くことがないようではどうにもならない。そもそも読んでいる人も面白くないはず。なので、基本毎日更新を不定期更新に徐々に変えていこうかと思っている。
考えてみると、25年前に自分のサイトを立ち上げたころは、道を歩いていても頭の中を電光掲示板のように言葉が流れていた。それをサイトに書くだけでよかった。今はそういうこともない。それもまた老化なのかもしれないが。
相変わらず毎日メーカーから大量のメールが届くが、プラグインに心を動かされることは一切なくなった。以前だったら調べ始めて止まらなくなり、最終的には一番いいものが欲しくてどうにもならなくなったものだが、ここにきてようやくプラグイン沼から卒業できたということなのだろう。
気がつけば還暦を過ぎてもう4年が経過している。毎日一杯一杯で生活しているのは相変わらずだが、体力は落ちる一方。これで今以上に精力が落ちたら、立派な枯れた老人の出来上がりというところだ。困ったことにいまだに自分が老人であるという自覚がない。一体いつになったらそういう自覚が芽生えるのだろう。それともそんな自覚はあろうがなかろうがどうでもいいことなのだろうか。日々年を取っているのは自分だけではなく、世界中の誰もが同じなのだから。果たして自我は老人化するのか、するとしたらいつどうやって、どういう風に変わるのだろうか。
8月26日、土曜日。
10時12分起床。相変わらず夏バテでだるくて昼寝を二度ほど。
午後、書きかけの曲をMuseScoreに起こし、サビ部分を作る。
鹿島 2-0 新潟。スコア的には快勝っぽいが、前半は鹿島が圧倒していたものの、2-0とリードした後半は新潟にほぼほぼ責められっぱなしになってしまう。1点ぐらい返されてもおかしくなかった。鈴木優磨がイエローカードをもらって次節出場停止というのが痛い。
夜ドラマ「BORDER 衝動~検視官 比嘉ミカ」。見るのは3度目なのでさすがにネタバレしているといまひとつ興が乗らない。
8月25日、金曜日。
10時44分起床。と言っても、隣の工事の音で何度か目が覚める。
で、あっという間に隣の骨組みができて、どうやら2階建ての模様。
業務は控えめでほぼ無駄足。他に特筆するようなこともなく。それにしてもなんでこんなに暑いんだろう。
8月24日、木曜日。
アラームで9時半ジャスト起床。
昼前に母と窓越し面会。ぱっと見でまた髪が白くなったかなと思ったのだが、写真に撮ってみるとそうでもなかった。母はまだ自分の生年月日をちゃんと言える。
それにしても暑い一日だった。台所は日中の室温が35度だったが、驚くことに窓を開けていても夜になっても34.5度あった。これではエアコンがなければ本当に熱中症になってしまう。
日中業務少々。午前中からポジションを取って、結果的には午後ナイスタイミングで利確。そこしかないというタイミングだった。後は例によってスマホで漫画「殺し屋1」を延々と読んで読了。どうもスマホで漫画を読むという、あまりよろしくない癖がついてしまったようだ。それにしても「東京大学物語」に続いて「殺し屋1」を読むと、漫画家というのは性的嗜好が変態ばかりなのではないかと思ってしまう。どちらも変態を極めるという側面があるだけに。ある意味漫画というのは誇大妄想なので、それに取り込まれないようにしないと。
8月23日、水曜日。
10時12分起床。
気がつくと隣の工事が足場を組み立てていて、それが3階分ぐらいに見える。2階だといいが。いずれにしても、書斎の窓から見える風景は変わってしまった。
日中、外は36度(スマホによる)、台所は35度。確かに地球の温暖化は進んでいるのかもしれないが、夏っていうのはこういうものなのかもしれない。
江川達也「東京大学物語」読了。合間に業務。途中、話が完全に破綻してるな、とか思ったが、最終話を読んで唖然。まあ確かに、漫画というもの自体が妄想なのかも。考えてみれば人生というのも似たようなものだし。
正直、僕らの記憶はどこまで正しいのだろうか? 何故覚えていることと覚えていないことがあるのか? そこには特段のプライオリティはないように思える。どうでもいいことを覚えていて、酷く重要なことを覚えていなかったりする。もちろん、忘れるということの重要性もあるのだけれど。
例えば、30年前に戻れるとしてみる。しかし記憶もまた30年前に戻るとなると、実質戻ったことにはならない。戻るということは現在の記憶を保持したままでなければ戻ったことにはならない。その意味では、僕らは決して戻ることはできない。
僕らは何故悔いるのだろうか? 何故やり直したいと思うのだろうか? それは常に今現在ジャストナウの感情に過ぎない。僕らは常に、今、何かを思うのだ。
もう一度、蚊帳にとまる蛍を見てみたいなあ……。