800g

4月20日、金曜日。

やっぱり毎日お題を挙げて即興でブログを書くのはきついし面倒だ。

それはともかくとして、どういうわけかこの二日間で800g痩せた。特に何もしていないのに。今日は向かいの寺の桜が満開だったので、ぼんやりそれを眺めたぐらいで、後は昨日同様相場のポジションを持っている間はひたすら煙草を吸いながらストレスに耐え続けていた。ということはつまり、ストレスで痩せたのか。しかしそうじゃなくても毎日なにがしかのストレスはあるし、むしろストレスのない日など皆無に等しい。とはいうものの、例えばマウスにストレスを与え続ければそれは痩せるのかもしれない。だが例えば僕の後釜でディレクターになったユカリの場合はストレスで馬鹿食いして物凄く太った。つまりストレスで痩せる人も、太る人もいるのである。

しかし二日で800g、それもきちんと一日400gずつ痩せたというのは、一体どういうわけか。食事もいつも通り食べているし……。強いて言えば間食をあまりしなかったことぐらいか。その分煙草の本数が増えて。あとは昨日今日と昼寝をしなかったことぐらいだが。昼寝をしなければ体重が減るというわけではないだろう。世の中の大概の大人は通常昼寝をしないわけだし。スペイン人とかイタリア人なら別だが。

逆に一日で400g体重を増やそうとするとこれは楽じゃない。肉を400g食べるのはちと一苦労。間食をしまくるとか、かなり食べないとそこまで増えそうにない。しかも二日続けてとなると。だがもしかしたら案外400gぐらいは便通の誤差であるのかもしれない。便秘をしているかいないかでそれぐらい違ったりして。とはいうものの、特に便通がよくなったという認識もない。

とすると、昨日今日の800gは一体何が減ったのだろう? 要するに余分なものが落ちただけなのか。一概に800gといえば、目の前にその分量の肉の塊を置けば結構な分量である。

あと考えられるのは、煙草の本数が4本ぐらい増えたことか。とすると、1本あたり100g? んな馬鹿な。何はともあれ、太るよりはいい。何もしなくても痩せられたのだから、ここはひとつラッキーということにしておこう。こういう、さしたる理由もなく減った分の体重って、結構簡単に戻るんじゃないかな。リバウンドで。

そういえば今朝は珍しく5時台にトイレに起きた。もちろん二度寝三度寝をして最終的には9時44分起床。どういうわけか二度寝三度寝するたびにだんだんと眠くなった。そんなわけだから起きたときはたいそう眠かったのだが、その割には不思議なことに今日は昼寝をしなかった。というか、朝食後に書斎でデスクトップPCに向かった途端に眠気がなくなった。昼寝をしなかったのは珈琲を余計に飲んだせいかな。日中だけで3杯。

昨日は奇跡的に煙草が28本で収まった。今日も途中まではまったく同じペースだったので、これは30本いってもしょうがないなと思っていたのだが、これを書いている今吸っているのが25本目。いずれにせよ、28本と30本にそこまでの差があるとは思えない。

体重も減ったことだし、ここはひとつ油断して夜中にポテトチップスを食べようかな。

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そして父になる

4月19日、木曜日。

お題が思いつかないので今日は日記にしよう。

ようやっと髪を切った。午後になって溜まったごみをごみ処理場に持って行き、帰りがけに1000円カットを覗いてみたら誰も待っていなかったので。外気温は20度だったが、とにかく暖かかった。向かいの寺の桜も満開。帰宅すると、玄関先に黒い猫がいた。首輪をつけていて、先日聞いた話によるとうちの裏手の家で飼っている猫だそう。逃げなかったので久しぶりに猫を撫でた。常日頃、猫を飼いたい飼いたいと思っていたのだが、いざ撫でてみるとこんなものなのかなという感じが。たぶん僕は何よりも優先して猫を飼いたいとまでは思っていないということなのだろう。とすると、たまに餌をあげるくらいで十分。その後、少々薄汚いが白い猫も書斎の前を横切った。こっちは野良猫なのか。

朝は例によって二度寝したものの9時46分起床と一応9時台に起きたのだが、昼寝をしなかったせいなのかなんなのか、煙草の本数が増えた。途中で何本吸ってもオーケー宣言をツイッターでしたものの、このままでは田舎に帰ってからの一日あたりの最高本数を記録しそう。これを書いている現時点で既に27本。ついに30本に到達するのか。

今日の相場はそのまま持っていればよかったという、結局のところよく分からなかったパターン。夜になって、自分が何をやっているのか分からなくなったら中断という基本ルールはまあまあ正しいと。

どうしても福山雅治という役者が好きになれないのだった。そして、なんでみんな福山をエリートとして使おうとするのかがいまひとつ分からない。この映画でも福山が父親にはどうしても見えなかった。まあそれは僕が子供が苦手というせいもあるのかもしれないが。

僕は父になったことはない。結婚していたころ、当時の妻の娘がひと騒動起こしたときに一応説教らしきものを垂れたことはあるのだが、自分が父親であるという自覚はまったくなかった。妻の娘の目にも、僕は父親としては映らなかっただろう。それは当然のことである。そんなわけだから、どうしてもお互いにニセモノ感が漂う。福山雅治が父親を演じると、なんかそういうニセモノ感が。たぶんそういうのを偏見というのだろうが。

で、どうする? あと二本吸うと新記録を樹立してしまう。記録というものはいつか破れるものだということなのか。そして、実際問題として30本吸ったら一体何がどうなるんだろう? 田舎に帰る前は一日に40本や50本吸っていたのに。要するに「たが」が外れるのが怖いんだろうな。そして、「たが」は本当に外れるのだろうか。つまり、以降平気で30本吸うようになってしまうのだろうか。

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バイオリズム

4月18日、水曜日。

やることなすこと上手く行かず、今日みたいな日はさしずめバイオリズムが下がっている日なのだろうかと思った。そういえば最近はバイオリズムという言葉を聞くこともほとんどなくなった。そもそもが根拠のない仮説だし、どちらかというと後付けの理屈(特に今日みたいな場合は)の類であって、仏滅と大安みたいなことと大差ないのかもしれない。それに、ウィキペディアで調べてみるとバイオリズムが完全に一巡するには58.2年かかるという。そういう意味では僕なんぞはちょうどバイオリズムが一周したことになるが、要するにその日その日で今日はバイオリズムが悪いとかいう概念ではなさそうだ。

例えば今日なんかで言えば、夕方になって相場の指値を少々考えた挙句にドル円を残してユーロドルを外したら、なんとその10分後ぐらいにユーロドルの指値が成立してたはずで、それも本日の安値をピンポイントで取るクリティカルヒットになっていた。つまり、わざわざ正解の方を外したことになる。こうなるとなんか、マーフィーの法則みたいな匂いもする。なんだか起こるべくして起こったような。業務に行けば途中で移ったネタでボコボコに不ヅキを食らわされるし、朝は7時半前に目が覚めて二度寝すると4時間もワープしてしまうし、ことごとく裏目に出てしまう日というような印象。もちろん可能性としてはそういう日もあるのだろうが、わざわざ敢えて失敗する方を選んでいる気がしないでもない。正確に言えば相場の指値に関しては失敗したというよりも成功を掴み損ねたというべきなんだろうけども。

ところで前述のウィキペディアでバイオリズムを調べると、バイオリズムは約1カ月周期で、女性の生理の周期とほぼ似通っている。運不運みたいなものが一ヵ月周期で上がったり下がったりと考えると、女性の場合だったら生理が来て身体的にも精神的にも不安定になるとかいうことがあり得る(女性じゃないので分からないが)けれども、男の場合であればまったく根拠がない。結局のところ、今日はダメな日だったとかいうのは結果論でしかない。そもそも僕のように悲観的な人間はいい予感というものは滅多になくて、ほとんどの場合は嫌な予感しかない。予感を本能的な由来のものと考えれば、危険察知能力として嫌な予感が圧倒的に多いのも無理からぬことである。ただそれが習慣的にしみついてしまうとそれは単にネガティブな思考の悲観的な人間だということになってしまう。

結局のところ、どんなに楽天的な人間にも不運は訪れるし、どんなに悲観的な人間にも幸運は訪れる。ただそれを禍福はあざなえる縄の如しみたいに捉えると、幸運と不運が交互に順繰りにやってくるみたいな感じがしてしまうし、どっちにしても運は帳尻合わせになるみたいな考え方はいまひとつ夢がない。何にせよ、所詮僕らは常に結果を事前に知り得ない、ということだけは確かなのだ。そしてたぶんそれは有難いことなのだ。

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さよならという警告

4月17日、火曜日。

映画を一本見た。

何故この話が地味だったかというと、確かに衝撃の事実というのはあるのだがそれはひとつだけで途中で明らかになり、後はそれを延々と咀嚼するばかりだから。たまたま何の情報もなく見たけれど、実は予告編とキャッチコピーでその肝心な衝撃の事実の部分が分かってしまうという、つまりネタバレで始まるという奇妙な映画会社の戦略。まあそれが分かっていると冒頭の延々と続く息苦しい濡れ場の見方も変わるのだろうがそれにしても。

考えてみると、これまでの人生で「さよなら」と言ったことがない。もしあるとすれば、田舎に帰ることを決めて飼っていたカメを川に放したときだろう。とにかく、少なくとも大人になってから、人間に向かってさよならと言った記憶がない。それは重大な決心を持って言うか、あるいはただの軽い挨拶として言うかのどちらかになると思うのだが、後者の習慣は僕にはなかった。僕は「さよなら」じゃなくて「じゃあね」という人間だった。つまり、ほとんどの局面はさよならと言わないことによってある種モラトリアム化したいという願望があったのだ。簡単に言えば潔くない。出来れば自分から訣別はしたくないという感情がどこかに働くのだろう。確かに「もう会わない」と自分から決めつける局面はいくつもあった。だがその場合も「さよなら」とは言わなかった。理由はよく分からないけれど、なんだか「さよなら」と言ってはいけないような気がするのだ。たぶんそれはそこに明確な線を引くことだから。僕にはそういった明確で確固たる線を引く勇気がない。

簡単に「さよなら」と言える人はちょっとずるいと思う。
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本日のメインイベントであるACLグループリーグ、鹿島対水原は0-1で鹿島が負けてしまった。どっちにしてもグループリーグ通過はもう決まっていて、これで2位通過が決まっただけなのだけれど、それにしてもなんでこんなに悔しいのだろう。鹿島が負けるたびに臍を噛む思いをするようでは。

この日記を毎日読んでいる人なら気づいただろうが、一昨日ぐらいから書き方を変えている。ブログ化、脱日記化しようとしている。具体的には日記として時系列順に出来事を書くのではなくて、最初になんとなくタイトルを書いてそれについて書く、という手法にしている。つまりお題について書くというわけ。まあ即興である。いつまでこれが続くのかは分からないが。それに、fragmentsとの差別化をどうするかという問題もある。

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なにがしかの記憶

4月16日、月曜日。

この曲にMemoriesというタイトルをつけたのは、かつての自分に捧げるというつもりだった。それがどの辺の自分なのか、それは定かではないのだけれど。これを作ったのはちょうど悪性リンパ腫で抗がん剤治療をしている時期で、そのときに何曲か作ったうちの最後の方の曲。その後4ヶ月ほどの生まれて初めての禁煙をしていたので、マインド的には煙草を吸っていたころの自分に捧ぐ、みたいな気持ちで自分では聴いていたのだが、ご存知のように今ではもうとっくに再び煙草を吸っているので、ますますいつごろの自分かよく分からなくなった。ただ、とにかくこの曲を聴くと懐かしい。狭苦しい6畳の、散らかり放題のワンルームマンションで作った。あのころは昼間なら高架下の小さな公園で、夜ならばマンションの向かいの障害者施設の庭のベンチで、煙草を吸いながら何をするでもなく放心していた。自分が人生のどの位置で何をしているのか、もうさっぱり分からなくなっていた。もちろん、何をすべきなのかも。先のことは何も思い浮かばなかった。あのころ既に僕はもう後ろ向きだった。なんとなく、自分が人生の端っこの方にいる気がしてた。癌だと告げられていつまで生きられるのかなとか、もう自分の人生は終わるんだろうかとか、そういうことを考えたのは最初のころだけで、治療しているころはそういうことをすっかり考えないようになっていた。後ろ向きとは言っても、それほど過去の自分をさかのぼるわけでもなかった。まったくもって、あのころの自分は点のように存在していた。ぽつんと。

自分が何をやっているのかよく分からないという点では、今でもさして変わりはない。その日その日をただ生きているだけ。毎日なにがしかの記憶が蘇り、ちょっとずつ、ちょっとずつ、何かを思い出す。しかし今の自分を先になって思い出すことはあまりないだろう。実のところ、この3年ばかりの記憶は何がどうというのがみんなごっちゃになってひと塊になり、どれがいつの記憶なのかも怪しい。というのも、まったく同じような日々を重ねているからだ。時間は経っているのに何も進んでないという感覚。日々の焦燥感。孤独。そういうものがただ漠然とそこにあるだけ。「そこ」というのはつまり「ここ」なわけだけれども。

それでもいつか懐かしい記憶になるのだろうか。

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父の書棚にあった藤沢周平、ちょっとびっくりするくらい面白かった。それで久しぶりに図書館から藤沢の全集の九巻、つまり同じ用心棒日月抄シリーズを借りてきて読み始めたところ。シリーズを最初までさかのぼるということだが、もしかして同じシリーズだと飽きるだろうか。はて。

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偽センチメンタリズム

4月15日、日曜日。

結局のところ、勘違いしているかしていないかの違いしかない。人生の大半を勘違いしてきた。そして今、この歳になって勘違い出来なくなっている。もちろん、いい方に勘違いしているか悪い方に勘違いしているかという違いはあって、その意味ではどうやっても今は悪い方にしか勘違い出来なくなっているということだ。誰もが抱いているぐらいのコンプレックスはずっと抱えて生きてきたが、50代になってからはむしろそれがどんどんと膨らむ一方になってきた。そしてそれは、どこをどう転がしても自分は人並みではないのだ、というオブセッション、強迫観念を抱くまでになった。簡単に言うと、どこをどう見ても自分はリア充ではないのだ。というようなことが、「リア充」という言葉が出現して以来頭に貼りついている。なので、この奇矯なコンプレックスの増大はどうやらSNSと密接な関係があるようだ。SNSが僕を不幸にした。要するにSNSを通じて他者と自分を比較するようになってしまった。その癖、現在の自分の情報源はほぼSNS(ツイッター)である。なんとも皮肉なことだ。だからスマホのSIMも主だったSNSが使い放題になるLINEモバイルにした。フェイスブックなんて滅多に見ないのに。たまにフェイスブックを開くと誰かに見つかっている。例えばすっかり名前も顔も忘れていた高校のときの同級生とかに。それがまた、うっかり見つかってしまった指名手配犯みたいな気持ちになる。自分以外の同級生皆が恐ろしく幸せに見える。考えてみるとそういった鬱屈は、2000年にうつ病になったときからひっそりと、しかし徐々に確実に僕の心に巣食っていたのだった。

とはいうものの、自分がどの程度不幸なのかというと、それもまた漠然としていて実は何の根拠もない。例えば「JIN -仁ー」とかの大好きなドラマを見ている最中はこの上なく幸せだと思ったりもする。そんなわけだから幸せと不幸せの線引きも曖昧だ。充たされているのか充たされていないのか。そういう意味では振り返ってみると自分の30代のころは過剰に満たされていた、という気がするのである。なんだか嘘臭いぐらいに。だからもしかすると僕は他者と自分を比較しているのではなく、過去の自分と現在の自分を比較しているだけなのかもしれない。

どっちにしても充たされない気持ちがあって、それがなんだかニセモノっぽいセンチメンタリズムの妄想、つまり悲観になる。あらゆるものが手が届かないのではないかという気がする。一方で、同時にどこかにまっ、いいかみたいな気持ちもある。それはつまり、悲観と諦観の間を揺らめいていることだから、これはたぶん客観的に見ればよろしくない傾向なのだとは思う。いつまで経っても出口が見つからないのは、自分が考え想定する出口というもの自体が間違っている、あるいは想像上のものでしかないということなのかもしれない。

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今日も夢の続きが見たくて二度寝して10時43分起床。で、実際に最近の傾向として二度寝すると夢の続きが見られるのだ。それはともかく昨夜懐中電灯が壊れていることに気づいた。さらに、深夜になってデスクトップPCのDVDドライブが壊れた。一応メーカーのサポートに電話してみたら案の定外付けドライブを使った方が安いし現実的ということ。外付けのDVDドライブは持っている。そんなわけで今日は隣町のヤマダ電機に行って懐中電灯を買った。正確に言えば先日冷蔵庫を買ったときにもらった500円の割引券とポイントを使ったので一銭も払っておらず実質タダ。外付けのDVDドライブのUSBケーブルがあまりにも短いので、1mぐらいのUSBケーブルがついているUSBハブを買おうかどうしようか売場で物凄く迷った。ついでにブルーレイのドライブも欲しくなって迷った。だが今日のところは懐中電灯だけで我慢する。

今日は15日、隣組長になって初めての町内会費を集金する日。集金袋に貼ってある表の順番に9軒回る。最初に行った裏の家が留守で、それだけが残りどうしようかと思っていたら、6時過ぎに母のところに行こうかと思ったタイミングで裏の人がやってきて町内会費を持ってきてくれた。どの家に行っても一年大変ですねと言われるのだけれど、あれだけ隣組長の仕事に対して取り越し苦労していたので、集金に回るぐらいはどうってことはない。考えてみると、一日でこれだけ多くの近所の人と言葉を交わしたのは初めてかもしれない。そしてたぶんそれはそれほど悪いことじゃない。

明日はどっちだ?

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CRISIS

4月14日、土曜日。

今日のメインイベントは14時キックオフの鹿島対名古屋。なにしろ前節までの鹿島の出来があまりにも酷かったので正直今節はどうなのかという感じで見始める。そういえば前節のFC東京戦、金崎がゴールを決めると負けないという不敗神話がついに崩れたのだった。試合終了後まで気づかなかった。で、今日はというとその金崎の2ゴールで2-0の快勝。前節から見ると鹿島は随分とよくなった。昌子と内田が復帰したことでチームが落ち着いた。この二人がいるだけで安定するし安心感がある。前節よくなかった土居も今日はよかった。初先発の左SB小田逸稀は、試合開始直後は落ち着かない感じだったが時間を経るにつれてこなれた感じ。後半から交代で入った山口一真、金崎の2点目をアシスト。山口は守備が課題だが攻撃に関してはシュートの意識が強くアシストも出来るので期待大。見ていても面白い選手だ。ともあれ、ようやっと前節までのもやもやが晴れて(たぶん一時的にだろうが)溜飲が下がった。

で、金城一紀脚本のドラマ「CRISIS 公安機動捜査隊特捜班」を最終話まで見た。

去年放送したドラマだが、個人的には石田ゆり子が老けて容色が衰えていたのがショック。「逃げ恥」から随分老けたなあと。石田ゆり子も老けるのだから自分が老けるのも無理はないと痛感。

どうでもいいけど今夜は何故か腰が痛い。

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聴こえる

4月13日、金曜日。

夜風呂に入っていると、

などという現象が起こったのもドラマ「CRISIS」が途中から俄然面白くなってきたせいか。4話辺りから非情さに徹するようになって。小栗旬のドラマはこれ以前に「代償」を見ただけだが、このドラマではまさにハマリ役という感じがする。正直よく知らない役者なんだけれども。

で、風呂上がりにW杯出場がかかったなでしこ対オーストラリアの後半から見たんだけれども、なでしこは少なくとも先日ちょっとだけ見た韓国戦よりは随分とよくなったように見えた。実際阪口のゴールで先制したんだけれどもGKのキャッチングが怪しいなと思っていたら失点して1-1の同点に。よく分からないで見ていたんだが、これで突然試合は両者が手のひら返し、つまりこのスコアなら両者ともにW杯出場が決まるということで延々と日本は最終ラインでちんたらとボールを回し、オーストラリアはまったく取りに行かないでそれを見ているだけという出来レースに。まあウィンウィンなんだからしょうがないんだろうけど。というわけでなでしこのW杯出場が決まる。

ところで今朝は何故か7時25分にぱっちりと目が覚め、さすがに早過ぎるかと二度寝して次に目が覚めたのが9時5分、起きようとしたのだが今度は眠くてワープ、結局最終的に起きたのは9時30分だった。最近の中では比較的ましな時間だが、睡眠時間が7時間に満たないのでさすがに眠いかなと思ったが、不思議なことに昼寝せずに完走。ということは、何がなんでも8時間寝なくても大丈夫ということか。

もう一度風呂の中に戻ると、湯船に浸かっていてふと思ったのだが実家に戻って5年、話す相手はほぼ母しかおらずその母とは山形弁で話すのでようやっとネイティブ・ランゲージが山形弁っぽくなってきたかなと思ったのだが、思考はいまだに標準語で思考しているということに気づいた。まあ人生の大半を標準語で過ごしてきたので無理もないのか。いまだに山形弁で敬語を話すことが出来ず、母以外の人とは標準語で喋るしかないし、発音が訛っている人の山形弁は一度頭の中でコンパイルしないと駄目、つまり映画の字幕のようにワンクッション入るのでなかなか聞き取れない。たぶんこれは標準語で思考している以上改善しないと思われる。ま、それでいいっちゃいいんだけど、町内会の集まりとかで何を喋っているのか分からなくて苦労する……。

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いつかついた嘘

4月12日、木曜日。

震災のときに風呂に入っていてお湯が半分になった、と言ったのは誰だったろう? 思えば僕は小学生のころから嘘つきだった。小学生のとき「新潟地震のときに風呂に入っていた」という嘘をついた。自分が記憶している最初の嘘だ。

それから数限りない嘘をついた。

しかし悪意から嘘をついたことはほとんどなく、大概が自分を守るためである。そういう意味では悪意というのは一体なんなのだろう? たぶんそれは客観的あるいは相対的な言い方であり、主観的な意味での悪意というのはほとんど存在しないのではないか。もしくは、自分を守ろうとすること自体が悪意でもあるのか。少なくともなり得るのではないか。

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昨夜寝床に就いて、身体がすっかり冷え切っていることに気づいた。で、今朝目が覚めたら頭が痛かった。これは風邪をひいてしまったのではないかと思い、朝食後に2時間近く寝込んだのだが頭痛は取れず、やっぱり風邪をひいたかもと思った。体調の悪いときはトレードをしてはならないというルールを犯して相場のポジションを取ってしまい、一度ポジションを取ると引っ込みがつかなくなりチャートを睨んでいるといつの間にか頭痛は消え失せていた。とすると、風邪をひいたと思ったのは一体なんだったんだろう? いずれにせよ結果オーライ。

夜、Netflixでドラマ「CRISIS」を見始める。金城一紀が脚本を書いているというので見たかったドラマだ。ところが演出と音楽が先日見た「マークスの山」と同じ組み合わせで、何かと仰々しい。クールな台詞を連発する一見クールな演技に、見ているこっちがだんだん恥ずかしくなってしまう。大仰な音楽が被ると演技とのギャップが凄い。ドラマだからしょうがないのかもしれないが、これ、もっと大幅に音楽を被せるのを減らせばもっとクールになり、かつ緊張感を出せたのではないか。何が言いたいかというと何かと過剰なのである。しかしながら3話まで見るとだんだんそういうノリにも慣れてきて、すると面白くなってくる。

それにしても夕方ちらりと見た日本代表の西野監督の記者会見は酷かった。もう見るからに嫌な汗をかきまくって顔が完全にテンパっており、見ていて痛々しくなるほどだった。日本語で喋っているのに何を喋っているのかよく分からない。まるで大変な阻喪をしでかして糾弾されている政治家の答弁みたいだった。これを見てハリルホジッチよりも勝つ確率が数パーセントでも上がると思った人間は、日本中で誰一人いなかったのではないか。

さて、なんの嘘をつこうか。あなたが信じるまで。

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崩落

4月11日、水曜日。

という具合に朝から何やら不思議な現象が起きた。今日のメインイベントは19時キックオフの鹿島の試合なので、シリア問題の懸念もあり日中は相場のトレードを控え業務に行くもネタがお粗末過ぎ、4時過ぎに母のところに。

というわけでその鹿島の試合なのだが、FC東京に2-1と逆転され2連敗。開始早々に左サイドバックの山本が負傷交代というのは確かに誤算だったが、先制したのだし問題はそこではない。オウンゴールで追いつかれ、そのオウンゴールとなるクロスを上げたFC東京の右SB室屋にものの見事な逆転弾を決められ、まったくもってやりたい放題にやられた。今の鹿島が深刻なのは後半に入ってからの迷走で、チームの意思統一がなっていないことが明白。チームの決まり事というものがない印象。これはひとえに指揮官の大岩監督の責任。ボールキープ出来て一人で打開できる好調なレアンドロを下げて小笠原を投入、果ては右サイドバックの伊東を下げて金森投入と、もう訳の分からない采配。追いつきたいのか(負けているのに)守りたいのか。先日の湘南戦といい、今のままでは鹿島は危篤状態、一刻も早く監督を代えないとこのままずるずると連敗してもまったく不思議ではない。正直チームになっていないし、その原因は大岩監督のマネージメント能力のなさと戦術のなさにある。そもそも石井監督に代わって監督になる前から、一試合代理で指揮をしたときから采配は謎だった。2列目に西や永木といった守備的な選手を使いたがるという。昨季終盤に勝てなかった辺りからもう鹿島は勝ちきれないチームになりつつあった。大岩の功績は三竿をレギュラーにして代表にまで上り詰めたということだけ。とにかく今は大岩監督の能力を信じる気にはなれない。

……ということだからか何なのか、鹿島が連敗したということで頭は痛くなるわ気持ち悪くなるわで本当に体調が悪くなった。今の鹿島を見ているのは辛い。怪我人がやたらと多いのもどこかに理由があるのだろう。とにかく早くなんとかして欲しい。じゃないと本当に病気になっちまう。

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