眠る病

土曜日。

朝何度目かに目が覚めて時間を見ると、もう11時近かった。にも関わらず永遠に眠れそうなくらい眠い。だが時間が時間だけにさすがに起きた。まるで全身に乳酸が溜まっているようで身体が物凄く重い。16トンぐらいありそうだ。やはり風邪気味なのではないかと思う。

朝食後のコーヒーを飲んでいるともう昼を過ぎる。2時からJリーグの鳥栖対浦和の試合を見るつもりだが、その前に2階の自室を片づけた。これが今日唯一まともにやったこと。後は何もしていないのに等しい。

鳥栖と浦和の試合を見ながら、冷凍しておいたご飯を温めて卵かけご飯の遅い昼食を摂り、安定剤を飲む。するとまた例によって物凄い眠気が。試合の後半が始まったが台所の椅子にもたれてうとうとしてしまう。試合自体はロスタイムに鳥栖が同点に追いつくという劇的な展開、これで浦和は神戸に快勝したガンバに順位では追い抜かれ、優勝は苦しくなった。鳥栖は優勝争いから脱落、鹿島はセレッソに勝ってまだ優勝の可能性を残す。セレッソは降格が決定。個々のタレントを考えるとセレッソの降格というのは不思議な気がしないでもないが、実際に試合を見ると今季のセレッソの試合はバラバラ、ある意味降格して当然のサッカーをしていた。

例によって6時半ごろに母のところに行く。今日の母は落ち着いてはいるものの、目が昨日のように穏やかではない。母の状態は日々変わる。

帰宅して夜はhuluでロマン・ポランスキー監督「ゴーストライター」を見た。確かに堅実な演出なのだがどこか消化不良な感じは否めず、カタルシスのないフツーの映画という印象。いろんな賞を受賞した映画には思えず。ただ撮影を含めて演出自体はしっかりしており、脚本・ストーリーに劇的な起伏が足りなかったせいだろうか。ポランスキーという監督に対する僕自身の評価はどうも定まらない。もしかしたら意外と凡庸な中堅どころの監督なのかもしれないとも思う。映画以外の話題でエキセントリックな監督という印象はあるものの。

そんなわけで本日もほぼ何もしていないうちに一日が終わる。なんか膝に来ているのでよほど運動不足と思われる。風呂に入る前にちょこっとギターを弾いて、それから少しだけスクワットをする。

松原耕二「ハードトーク」読了。非常に評判の高い本で確かに面白かったのだが、僕にはセンチメンタリズムが過剰に思えた。情緒的な記述・エピソードが多過ぎる。というか、そういった情緒に訴えようという小説なのだろう。どうも今の僕はこういった話を素直に読めない。もっとクールにセンチメンタリズムを削ぎ落したものが読みたいのだった。読者の情緒に訴えようとするあまりユーモアも足りず、どこか浪花節になっている気がした。

というわけで阿部和重・伊坂幸太郎の「キャプテンサンダーボルト」を読み始めたのだが、初っ端から伊坂のご都合主義と最近の阿部の妙な軽さが全開、いまのところは嫌な予感的中といった感じ。カズオ・イシグロの短編集「夜想曲集」がアマゾンから届いたらそっちに鞍替えしようかなと思案中。

ところで、マインツはシャルケに敗れたものの、岡崎が今季7点目を取った。

それにしても何もしないで一日過ごすのは虚しい。なんでこう毎日毎日眠いのだろうか。ナルコレプシーみたいにところ構わず寝てしまうわけではないが、ここまで毎日眠くなって起きていられず寝てしまうというのはもはや一種の病気のようにすら思える。このままでは昼夜逆転してしまうという危機感を覚える。


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夜霧

金曜日。

昨夜寝たのは3時ごろ、今朝は9時前という二度寝するには中途半端な時間にトイレに目が覚め、そのまま起きた。それはいいのだが、とにかく朝から眠気が凄い。体調があまりよろしくないというせいもあるが、あくびが止まらない。午前中からずっとうとうとしていたが驚くべきことに昼を過ぎて3時ごろになるまで眠気は治まらず、大半の時間を台所のテーブルに突っ伏してうとうとしていた。意識のある時間の方が少ない。とにかく頭がぼうっとして朦朧として、本を読むどころか起きてすらいられない。顔が火照っているところをみると恐らく暖房のせいだと思うが、昼に飲んだ安定剤の影響も多少はあったのかもしれない。いずれにしてもまるで粘膜のように頭に眠気がこびりついて取れない。さすがに危機感を覚える。家にいると果てしなく突っ伏して寝てしまうような気がして、3時過ぎにドトールまで遠征することにした。

ドトールまでは車で20分ほど。4時過ぎに到着してカプチーノを飲んだ。ところが値上がりしてSサイズで260円になったカプチーノ、あまり美味しくない。カプチーノと言えば、昔ユーミンのディレクター時代、ロスのバーニー・グランドマンのマスタリングスタジオでいつもバーニー自ら淹れてくれたカプチーノを思い出すが、そっちの方がよほど美味しかった。とにかく、外が暗くなるまで松原耕二「ハードトーク」を読む。

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このドトールは本屋に隣接というか、本屋の中にある。途中で席を立って本屋を一通り眺め、散々迷った挙句阿部和重・伊坂幸太郎合作の「キャプテンサンダーボルト」を買ってしまった。地元というかうちの隣町出身の阿部和重はデビュー作からずっと読み続けているが、近年作品の質が落ちている。一方の伊坂幸太郎は以前この日記にも書いたが3作ほど読んで酷評、作家としての力量そのものに疑問を抱いてもう読まないと思っていた作家。ハードカバーの新刊なんて久々に買ったが、この作品がもしつまらなかったらもう阿部も伊坂も一切読まないことにしよう。ツイッターで勧められたカズオ・イシグロ「夜想曲集」はアマゾンで中古が1円だったので帰宅後に注文。

結局ドトールには5時過ぎまでいて、帰り道はすっかり暗くなっていた。帰宅すると真っ暗。もう6時近かったが体調がよろしくないせいかあまり腹は空かない。一応午前中に相場の指値は置いておいたが、今日はとても届きそうにないなと思っていたらひとつ成立していた。

6時半ごろに母のところに行く。玄関を出ると凄い霧。まるでロンドンか、それともジョン・カーペンター監督「ザ・フォッグ」を思わせるような夜霧が舞っていた。母は今日も落ち着いた表情をしており、いい目をしていた。眼差しがとてもまともだった。それはとてもいいことなのだが、ある側面ではそういうまともな母を特別養護老人ホームに入れているということが無残なことに思える気持ちもある。

夜、僕にしては遅い夕飯を餃子を焼いて食べ終わると指値がもうひとつ成立した。相場は先ほどまで引っ張って無難にプラスで手仕舞い。

それにしても、今日はなんであんなに眠かったのだろう。もしドトールに行かなければ、一日中うとうとしていたかもしれない。まったく手に負えない眠気だった。もしかしたら風邪気味なのかもしれないと思って熱も計ってみたのだが熱はなかった。暖房が原因だとすれば、この先寒くなる一方なのだからどうしようもない。家で暖房をつけていると起きていられないとすればかなり深刻な問題だが、一度出かけた後の夜は大丈夫だった。結局身体だけ夜型になり、ある種の時差ボケみたいになっているのだろうか。分からん。

「ハードトーク」はもう終盤に差し掛かり、今晩寝る前には読み終わるだろう。精神的にはどうやらようやっと井戸の底からは抜け出しかけている。


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林檎とコーラ

木曜日。晴れ。なんか久々に晴れたという感じがした。ジョニー大倉が亡くなり、松たか子が妊娠。ジョニー大倉に関しては業界時代のエピソードがひとつあるのだが自重。というか、書くのがめんどくさい。以前どっかに書いたような気がするし。

昨夜寝たのは3時を回っていたと思う。一度8時にトイレに目が覚めたがまだ早いと思って二度寝、結局起きたのは10時近く。10時に起きると午前中はあっという間に終わる。朝食後のコーヒーを飲んでぼんやりしているともう昼。天気がいいし、何をしようかと考えたがこれといって思いつかず。結局昨夜の相場のポジションは今日まで持ち越したがこれといって動く気配もない。

しょうがないので昼食用のサンドイッチを作り、昼過ぎから3日振りに業務へ。3時ごろまで、煙草銭を稼ぐ。しかし本当に最近は閑散としていて客離れが凄い。換金率を上げて釘を渋くしたのがさらに客を飛ばす結果になっている模様。恐らくこの店ももう長くない。

帰宅後はまた眠気が襲ってきて窓際の一人掛けのソファで少しうたた寝。その後は2階に掃除機をかけた後、台所のノートPCに向かって相場。結果的に昨夜経済指標でトリプルパンチを食らって塩漬けになっていたポジションも夕方プラスに転じて決済。基本大勢順張りなので不思議ではないのだが、マイナスで日をまたぐのはやはり気が気ではない。まだ自信がないというか、もう少し確固たる根拠が欲しい。

6時過ぎに手持ちのポジションをすべて決済して母のところへ。今日の母は表情もよく落ち着いていて比較的調子がよかった。帰り際、気温が下がったせいで車の窓が曇っていた。すっかり寒くなった。

アメリカが感謝祭の休みなので夜は相場を自重、夕食後はhuluでリュック・ベッソン製作・脚本の「トランスポーター」を見た。なんというか、基本的にリュック・ベッソンはこういった007的な荒唐無稽なB級アクションが好きなのだろう。それにしてもいろいろと都合のよすぎるお気楽で派手なだけの大B級アクション、突っ込みどころは切りがなく、やれやれという感じ。なんでこんなくだらない映画を見てしまったのだろうとか思ったが、そのまま今度はドラマ「モテキ」の第1話を見てしまった。確かに漫画が原作というのもあるだろうが、日本のドラマってどうしてこういう過剰な演出になってしまうのか。

という具合に、気がつくと妙にハイテンションなものばかり見てしまった。このところ何かと深刻になりがちで極度にネガティブになっているものだから、いっそのこと自堕落にくだらないことをして過ごした方がいいのではないかと思ったりもしたが、そういう意味では今日は確かに漫然とくだらないことばかりをして過ごす結果になった。ひとつには体調もよくない。どこか身体がダルく、やけに肩が凝る。もしかして風邪でもひいたのかと熱を計ってみたほど。それに、毎日襲ってくる午後の眠気はなんとかならないものだろうか。この眠気と午前中のエンジンのかからなさでどうにも一日のリズムが作れない。

昨夜・今夜と風呂上りに林檎を食べてカロリーゼロだがカフェイン入りのコーラを飲み、安定剤を飲む。近頃安定剤はまったく効かないのだが3錠目は多少効くのか、カフェイン入りのコーラを飲んでいるわりには眠くなる。今は松原耕二「ハードトーク」を読んでいるのだが、娘が死んでしまうくだりとかは気が滅入る。なんか、悲惨なことは何も起こらない、ほのぼのとしてなんとなく幸せになるようなものを読んだり見たりしたいのだがなあ。もしくは、「悪童日記」ぐらい乾ききったものであればいいのだが。


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初雪

水曜日。

寝たのは3時過ぎ、三度寝ぐらいして10時近くに起床。今日は終日雨だった。

午前中は相場の指値をしたりしている間に終了、昼食はサンドイッチに飽きてきたので卵かけご飯。すると、午後になってまた強烈な眠気が。ここでコタツに行ってしまうと昨日のようにどん底に陥るので、台所のテーブルに突っ伏して30分ぐらいうとうとする。なかなかそれでも眠気は取れなかったが、台所の片付けをしたりして過ごす。結局さしたることは何も出来ないので。

夕方になって土砂降りの雨の中、父の帽子を被ってスーパーに買い物に行く。すると、帰り道にフロントガラスにみぞれらしきものが。予報によると今日の最低気温は6度だったから気のせいかと思ったが、夕食後に母のところに向かうとやはりみぞれだった。母のところでテレビを見ると山形市内は雪が降っていた。どうやら予報よりもずっと気温は低かったようだ。

今日の母はまた「着るものがない」という被害妄想傾向。少し情緒不安定な面も見せる。受付の記帳を見ると今日は夕方近くに母の友人3人が来たはずなのだが、母に訊ねても記憶が定かでない。来たこと自体は覚えているらしいので、どうやらそれがいつかという記憶が怪しいようだ。

帰宅して天皇杯の準決勝、山形×千葉を見た。山形の守備は酷いものだったが、なんと3-2で勝ってしまった。これで決勝進出。さすがに驚く。今年は決勝が元日ではなく(1月にアジア杯があるかららしい)、来月の13日の土曜日、相手は今日清水に5-2で勝ったガンバ大阪、まあたぶん歯が立たないだろうけど。

午後になってぽつぽつと成立した相場の指値だが、母のところから帰宅後の利食い出来るタイミングを逸して結局同値決済、そこまではまだよかったのだが改めて成行でポジションを取り直したところ、夜の米経済指標があろうことか3連続で予想より悪くすべて裏目、最悪の展開になる。トリプルパンチ。こうなるとあのとき利食いしておけばなあとか思うのだがそれを言っても始まらない。しょうがないので最低限のナンピンをして、もうそろそろ深夜2時になろうとしているがいまだに耐えているところ。折悪く明日からアメリカは感謝祭の休暇、日をまたいだものかそれとも損切りすべきか迷うところ。ポジションを取るときにそれなりにシナリオを想定してはいたものの、それがすべて裏目ってしまった。こういう日もある。

そんなわけで今日は初雪(みぞれ)だったわけだが、例年より一週間ぐらい遅く、去年よりも2週間遅いらしい。予報では来週の火曜から雪になるようだ。山形の長い冬が始まる。なにしろ一年の3分の1は雪が積もっているわけだから、それでなくても自宅に引きこもりがちな昨今、しばらくは雪に閉じ込められることになるのか。雪が降るのはしょうがない。とにかく少しずつ今のネガティブな精神状態を修正していかなければならない。ポジティブになれれば一番いいのだけれど、せめてフラットな状態には戻したい。

手帳を見ると、今日(26日)は一年前、母が倒れて手術をした日だった。あれからちょうど一年、なんかあっという間という気がする。


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悪童日記、絶望の深淵

火曜日。

アゴタ・クリストフ「悪童日記」、物凄く読みやすくて昨夜寝る前に読了。とても面白かった。双子の子供の手記、それも事実しか記述しないというルールのもとに書かれているので、余計な描写や主観的で無駄な表現とかは一切なく各章が極めて簡潔で短いので非常に読みやすいし実際読むスピードも速くなる。この、ある意味ミニマリズムに徹した手法のため、話が唐突に進む感じはする。なので、ラストも衝撃的な結末というよりはすべてが当たり前のように、ある種の必然として話は進み、終わる。これがなかなか気持ちよい。第二次大戦末期の話であり、ユダヤ人の強制収容であるとか、救いのない悲惨な場面はたびたび訪れるのだが、主人公である双子がそれを無慈悲に徹底したクールさで乗り越える(この表現が正しいのかどうかは分からないが)のはハードボイルドの極みと言ってもいい。あらゆる局面を感情を一切排して冷徹にやり過ごす子供(たち)というのは善悪という倫理観を超越した存在のように思える。恐らく、どちらかといえば悪に属するであろう彼らの言動に爽快感すら覚えるのは何やら不思議ではあるが。センチメンタリズムの不在が生み出すカタルシスといったような、奇妙な味わいの小説だった。


悪童日記

今日も精神的に酷い一日だった。こうして日記を書くのも青息吐息、久しぶりにさっきHと電話で話したが、どうも人とまともに会話出来る精神状態ではない。しんどかった。

朝は9時ごろに起きる。目が覚めかけるときに現実に戻るときのうっすらとした絶望感を感じながら。

朝食後、台所で音楽をかけながらコーヒーを飲んで一服していると一瞬ドアチャイムが鳴ったような気がしたが気のせいかと思った。書斎に行って着替えをしていると、ふと窓の外を見ると庭に叔母がいた。やはりチャイムは鳴っていたのだった。叔母は米と林檎(そういえば風呂上りに食べようと思って忘れた)を持ってきてくれた。

11時に歯医者、取れた差し歯を持って行く。根っこは大丈夫で無事歯は元に戻ったが、果たしていつまでもつのか。

その後は最近のパターン。日中がまったく、圧倒的にダメ。体調もあまりよろしくない。昼食のサンドイッチの味もよく分からない。午後早々に起きていられなくなり、また昼寝すると絶望するのが分かっていながらコタツで寝てしまい、案の定絶望する。途轍もない厭世観、自暴自棄に陥る。それをゆっくりと夜までかけて少しずつごまかすので精一杯。

昨日あたりから、何かをやるのにはいちいち手帳に書き出さないと何も出来ない。例えば昨日だったら一階に掃除機をかけたのと風呂掃除。今日はコーヒーの生豆を注文、2階の自室の押し入れにしまってあったバスタオルを出し、昨夜切れた自室用の灯油を補充。それぐらいしか出来ない。あとは腹が減るのでなんとかメシを作って食べてはいるものの、もし腹が減らなかったら食事すら摂らないかもしれない。買い物にすら行けない。

夕食後に母のところに行くと、母は珍しくテレビに見入っており状態は悪くないのだが、何しろ僕の方が絶望しきっていて、それを見せないようにするので精一杯。まさに息も絶え絶えといったところ。

そんな、放っておくと委縮・凝固してそのまま餓死してしまいそうな状態でありながら、なんとか相場をこなす。昨日から持ち越したポジションと、今日になって持ったポジションをなんとかやりくりする。そうやって、チャートに見入ってどうしようか考えている間だけは絶望している暇がない。だから、今日のところはなんとか僕を現実に繋ぎ止めておいたのは相場のポジションだった。こうなると、相場をやるのはある種の自己防衛本能みたいなもの。

このところ夜コーヒーを飲むとしんどい。ということは、ストレスから胃に来ているのだと思う。それぐらい今は精神的に危ういところにいる。極度に委縮しているので身体が強張って手が痺れる。ここまで(精神的に)酷いと安定剤でラリった方がまだマシと思うのだが、もうレキソタン1mgではまったく効かない。かといってベンゾジアゼピン系は耐性がすぐ出来るので量を増やすと切りがないし減らすときに苦労する。しかしながら、そうも言ってられないぐらい救いようがない状態なので、4錠目のレキソタンを飲もうかどうしようか悩んでいるところ。

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肯定に至るまでの否定

月曜日。祝日。

朝起きて階下に降りると、なんか寒くなったなと感じた。と思ったら、今日の山形の最低気温は0度を下回り、氷点下になったそうだ。

ここ数日、2時半就寝の9時前起床、午後コタツで小一時間昼寝というのがパターン化しつつある。これが果たしてどれだけ健全でどれだけ不健全なのか、さっぱり見当がつかない。まあちょっと前の、とにかくトータル足し算で8時間睡眠、うち3時間ぐらいは昼寝というパターンよりは夜まとまった睡眠が取れている分ましだと言えなくもない。

相変わらずコタツでうとうとすると物凄く悲観的になる。不安というよりも恐怖を覚える。どうもこれはパターン化しつつあり、パニック障害の予期不安みたいになっている。その余波でそれ以降しばらく強い厭世観に悩まされる。ほぼ絶望する。

昨夜日記を書いていて、肯定こそがすべての鍵であると思った。自分自身と自分の人生を肯定することこそがゴールなのだと。つまり、バカボンのパパの「それでいいのだ」こそが究極の至言であると。だが一夜明けて夜になると、実際はまるで逆の、徹底した否定に陥ってしまうというのは実に皮肉なことだ。午後コタツで昼寝するたびにすとんと否定の底まで落ちてしまうのだから困ったものだ。底まで落ちてしまうと後は落ちようがないから上がりそうなものなのだが、これが井戸のように一度落ちてしまうとなかなか這い上がれない。肯定へ至る道はなかなか険しい。

今日は朝食後、しばらく考えた挙句業務に行ったのだがまったくツキがなく、昼過ぎにはギブアップ。昨日から持ち越した相場のポジションは一旦プラスになったところで決済して、その後逆にポジションを取ったのだがこれが夜になって今現在裏目っているところ。上手く行かないものだ。

夜、昨日の続きで原田眞人監督「突入せよ! あさま山荘事件」をなんとか最後まで見たが、ただ怒号が飛び交うだけの駄作だった。原田眞人はときどきびっくりするような傑作を作るものの、作品にムラがありむしろ駄作の方が多い。ハードボイルドを演出させると上手いのだがヒューマンドラマ系はどうも凡作になる傾向。この映画も脚本の軽さが裏目に出ている。

なんか日記書いてたら急激に眠気が襲ってきた。猛烈な眠気。なんだろう。風呂に入る前に久しぶりにちょこっと階段の昇降をしたせいか。明日の午前中はようやく歯医者。


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歯と肯定

日曜日。

朝、朝食を食べ終わりコーヒーを飲もうとしたらぽろっと差し歯が取れた。予期していたとはいえ、かなりのショック。まるでこの世の終わりのような気分に陥る。意識的にはまず外見的に自分が赤塚不二夫の漫画に出てくる貧相なオヤジのような面相になってしまったと思い込む。特養に入所してからの半年で、根っことはいえ6本か7本も歯を抜かれた母がずっと歯のことを気にし続けていた気持ちが分かる。歯というのは、それだけでうつ病発症の一因になってしまうようなものなのだ。意を決してトイレの鏡で見てみる。すると、かろうじて正面の前歯ではないので見た目のインパクトは思ったほどではなかった。だが情けないことには変わりない。抜けた歯を見ると、どうやら10年以上前にも一度抜けて付け直してもらった歯のようである。今回も無事元通りにくっついてくれればいいのだが。

それでも人間というのは慣れるもので、夜になるころには歯が一本ないという状態にもようやく慣れてきた。しかし、見た目云々よりも夕飯を食べるときに気になって食べにくくてしょうがない。どうしても歯が抜けた方で噛む気になれない。

そんなわけで朝から何かと気分的には憂鬱な一日、夕食後に母のところに行った以外はひたすら家に篭って映画を見ていた。午前中に昨日アマゾンに注文したノートPC用のスピーカーが届く。あんまり早いので驚いた。確かに小さくてノートPCで使う分にはいい大きさなのだが、何しろ1500円かそこらの小型スピーカーなので低域が足りないのは予想通りだったが、音を出してみると1.5kぐらいの音域を意図的にフォーカスされていて、ハイハットとかのシンバルが妙に前に出過ぎて音楽を聴くのには向かない。ノートPC備え付けのスピーカーよりはマシという程度。それでも台所やコタツで映画を見る分には十分という感じ。こうして比べてみると同じ低価格のスピーカーでもデスクトップに使っているCreativeのT12がいかに抜群に音がいいか分かる。

ただこのT12、ACアダプター電源なので移動するには少々面倒くさく、今回購入したロジクールのスピーカーはUSB電源なので移動に関しては便利。

というわけで午前中からコタツで映画を見始める。最初に見たのは昨日「クラッシュ」が衝撃的だったポール・ハギス脚本の「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド監督)。これもアカデミー賞の作品賞を受賞した作品だ。だがこちらは「クラッシュ」のような納得のいく終わり方ではなかった。前半と後半の違いがあまりにも落差があるし、尊厳死というテーマも重い。そもそも、納得のいく尊厳死などというものは存在するのだろうか。それはあくまでも当事者の視点でしか存在しないのではないだろうか。第三者的視点で納得がいく、腑に落ちるという風にはどうやっても持って行けないテーマなのではないか。「クラッシュ」の脚本があまりにも巧緻を極めたものであったので、どうにもこちらの映画は理不尽な結末に思えてしょうがない。

「ミリオンダラー~」はhulu、つまりノートPCのストリーミングで見たのだが、本日2本目の映画は以前録画してあった石井裕也監督「舟を編む」をテレビの大画面で見た。こちらも日本アカデミー賞を総なめにした映画、三浦しをんの原作は本屋大賞を受賞。そもそもが辞書の編纂という地味な話であることもあるが、特に劇的な展開や起伏があるわけでもなく、淡々と話は進む。こういう映画はキャラクターや雰囲気がとても重要だ。松田龍平演じる主人公は少々デフォルメされ過ぎている感が無きにしも非ずだが、それなりに見ている間なんとなく幸せな気分に浸れる映画ではあった。物凄く面白い話でもないし、物凄くよく出来た映画というわけでもないのだが、そういう気分に浸れるというのは、恐らくいい人しか登場しない映画だから、ということが大きいのではないだろうか。おまけに誰も理不尽で酷い目に遭ったりしない。たぶんここに描かれているのは幸せのひとつのかたちなのだと思う。だから見ている僕らもなんとなく幸せな気がするのだ。こういう人間や人生というものを肯定する話はとても後味がいい。逆に「ミリオンダラー・ベイビー」の後味があまりよくなかったのは話を肯定しきれないからだと思う。そういえば昨日見終わった「イングリッシュ・ペイシェント」のラストと「ミリオンダラー・ベイビー」のラストは似ている。

夕方までに2本も映画を見てしまったが、かといって今日は他にすることも思いつかず夜になって遂に3本目の映画に突入。今度はまたhuluで原田眞人監督「突入せよ! あさま山荘事件」を見始めた。が、さすがに疲れて途中まで。僕がこれまで一日で一番多く映画を見たのは、高校のころにビートルズの3本立て(「A Hard Days Night」「Help!」「Let It Be」)を2回し、つまり6本が最高だが、僕はもう高校生ではない。

今日はなんか本を読む気分でもなく、かといってネット上のニュースを見たりツイッターのタイムラインを日がな追いかける気分でもなかった。要するに『映画なら見れる』という気分だったのである。それはそれで、まったく何をしたらいいのかも見当がつかない日がこのところ続いていたので、昨日今日と映画を見まくっているというのはそれなりに進歩、収穫であったと言えるのかもしれない。

とかく悲観的な気分が続いていて際限なく自分に対して否定的になる傾向にあるので、「舟を編む」みたいな肯定的な話はとても救いになる。気分的に。肯定するということはとても大事なんだなと思う。どうせ本を読むのならそういう話が読みたいものだ。

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Crash On Crash

土曜日。

数日来違和感を覚えてはいたものの昨夜ようやっと気づいたのだが、上の差し歯がひとつぐらぐらしていて放っておくと取れそう。なので今日の午前中に歯医者に電話したら火曜日の予約になったのだが、どうもそこまで持ちそうになくて気になる。

3時半就寝の9時半起床。昼を挟んで2時間ほど業務。2時からテレビでJリーグの鹿島×川崎を観戦。コタツで見ていたらどうも夕方近くなるとオートマチックに眠くなる。また5時ごろまで気絶。とにかく猛烈な眠気が襲ってきてどこか具合が悪いんじゃないかというぐらい。このところ、夕方コタツで昼寝する癖がすっかりついてしまっている。

スパゲッティの夕飯を済ませてから母のところへ。母は昨日からしている入れ歯が合わないらしく、痛くて外しているというような話を介護士としていたら、昨日はお前いたっけ? みたいなことを僕に向かって言い始め、どうやらこれは認知症の初期症状なのかそれとも以前手術後に担当医が言っていたように認知機能障害なのか。かと思うと、僕が米沢の上杉家についてちょっと口にすると、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人のなさぬなりけり」という上杉鷹山の言葉を淀みなくすらすらと言ったりする。

帰宅後、夜はhuluで3日間かけてようやっとアンソニー・ミンゲラ監督「イングリッシュ・ペイシェント」を見終わる。マイケル・オンダーチェの原作(「イギリス人の患者」)は評判になったので読んだもののピンと来なかったが、映画の方はアカデミー賞の作品賞を取ったというので見たのだがとにかくやたらと長いしひたすら退屈な映画だった。超つまらなかった。予定調和的なセンチメンタリズムのメロドラマ。意外なところがどこもないし、主人公にもまったく魅力がないので感情移入が出来ない。オンダーチェの原作も詩人らしく散文詩的なただひたすら情緒に流されるだけの印象だったが、こんなんでアカデミー賞の作品賞なのか。

それで、たまたまその下の方にサムネイルがあった、同じくアカデミー賞作品賞を取ったポール・ハギス監督「クラッシュ」を見始めた(バラードの原作によるクローネンバーグ監督の同名映画とは異なる)。これがとてつもなく面白くて一気に最後まで見てしまった。文句なしに面白い。たぶん今年見た映画の中で一番面白かった。衝撃を覚えるほど巧妙かつ綿密に構成された群像劇。差別、人種問題、多民族国家、犯罪、怒りなどの理不尽なものをただ理不尽なままで終わらせないポール・ハギスの脚本の力量は驚嘆すべき。数多い登場人物もすべて魅力的。これまで知らなかったなんて。とにかく衝撃を受ける。久々に創作意欲を喚起させられる体験。同じ群像劇であるポール・トーマス・アンダーソン監督「マグノリア」はとにかく鮮烈で新鮮な印象(特ににラスト)だったが、「クラッシュ」の方がもしかしたら脚本の完成度、無駄のなさ、洗練度は高いかもしれない。これは同じポール・ハギス脚本の「ミリオンダラー・ベイビー」も見なきゃなと思った。

と、映画に感嘆している間に長野県で震度6の地震があった模様。まったく、日本という国はどこにいても油断がならない。

ところで、昨日はすっかりその理屈っぽさ、薀蓄にうんざりしていた菊地成孔「スペインの宇宙食」だが、一番理屈っぽい部分を通り過ぎたらまた面白くなってきた。要するにこいつはディレッタントなのだなと。

それにしても差し歯が気になってしょうがない。なんとか歯医者まで持ってくれればいいのだが。


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暗転

金曜日。

3時ごろ就寝、9時15分起床。日中は快晴。

日中は書斎に篭ってちまちまと相場をやっていた。あまりに天気がいいので、午後外に出て玄関先の掃き掃除をしてみる。外は思ったほど寒くなく、タートルネックのセーターを着てちょうどいいぐらいの陽気だった。今日こそは何かまともなことをやらねばとfragmentsに文章を書こうと思って書き始めたものの、アイディアがまったく湧かず数行書いて断念、デザインを少々いじるだけに留まる。読んでいる菊地成孔「スペインの宇宙食」も途中からゴダールの話になった辺りから俄然つまらなくなってきた。博識なのは分かるがペダンティックに薀蓄を連発されるとうんざりする。なんでこう映画を語りたがる人は理屈をこねたがるのか。カタカナの単語が多くて意味の分からないものも多く、読んでいる自分が馬鹿なのではないかと思えてくる。まあこれはツイッターとかでも同じなのだけれど。世間の人が物知りなのか自分があまりにも無知なのか、区別がつかなくなってくる。この歳になって、いまさらながら自分があまりにも物事を知らないことに唖然とする。極端なことを言えば、中学生ぐらいから知識的にはなんら進歩していないのではないかと思えるほど。

ところで、菊地成孔を大学の後輩だと思っていたがどうやら勘違いだったらしい。彼の実兄が作家の菊地秀行であることも知らなかった。しかしゴダールをようやっと通り過ぎ、バンドの企画書に至ってすっかり嫌気が差す。こうなるとあまりに博識で才気走っているのは嫌味に転ずる。もう途中で読むのを投げ出そうかと思っているところ。

今日は夕方近くなってまたよせばいいのにコタツに移動、今日は寝ないぞと思って本を読んでいたのだが猛烈な睡魔に襲われ、結局また寝てしまった。目が覚めると時計は5時を回り、辺りはすっかり暗くなっている。この辺から世界は暗転した。

きっかけはECB総裁の講演、弱気な発言で一気にユーロが下落、僕の気分も下落。到底届かないと思っていた指値が成立したなと思っていたら、あっという間にストップに引っかかってしまった。で、よせばいいのに悪い癖が出て逆張り、さらに逆張り。当然事態は悪化する。

ここで母のところに行った。今日も母は落ち着いていた。部屋のエアコンも普通に温風が出ていた。

帰宅するとまたひとつストップに引っかかっていた。僕にしては遅い夕飯をレトルトのハンバーグで食べていると、また指値が成立、これも逆張り。どうも業務で言うところの状態に突入しているのだろうか、自分ではそれほど冷静さを欠いているわけでもないのだが、こういうときはどうも流れに逆らってばかりいる。それでなくてもストップを2発食らっているので日中のセコい勝ちはとっくに吐き出し、本日の負けは既に確定している。

というわけで、どんどん嫌気が差す。夕方の下落以降、というよりもコタツで寝て以降、ひたすら憂鬱な方に世界は暗転し、次第次第に煮詰まっていく。煙草ばかり吸いたくなるが気がつくと最近煙草を吸って美味いと思った記憶がない。夜飲むコーヒーがヘビーに思える。本を読めばストレスを覚える。髭を剃れば使い捨ての髭剃りはやたらと切れ味が悪い。気分転換に久々にギターをちょこっと弾いてみると悲惨なくらいに弾けない。もう楽器弾くのやめようかなと思うくらい。

なんだろうなあ。

考えてみれば、日中暖かな日差しの中で文章を書こうと思ったときから、既に煮詰まっていたのだ。なんていうか、それほど慌てふためいたり焦り狂っているわけではないのだが、どこかぼんやりしているような、頭というか脳が半分しか機能していないような、そんな消化不良な状態でふわふわと浮ついているのかそれとも半分沈んでいるのか分からないようなままに一日が過ぎていった。

相場の暗転とともに思考も暗転した。本を読む→知らない言葉が出てくる→俺は馬鹿だ。ツイッターを見る→自分だけが何も知らない。無知だ。ギターを弾く→上手く弾けない→この先も上手く弾けるわけがない。相場で逆張りをする→俺はサル並みの学習能力しかない。

というような思考回路に陥って、あたかも自分が途方もない無能であり無価値であり世界でも類を見ないほど無知で頭が悪い人間であるような気がしてくる。そして、もしかしたら僕はそれを知らずに何十年も生きてきたのかもしれない。なんという悲劇だろう。滑稽ですらある。一昨年、たまたま首の付け根に腫瘍を見つけなければ、僕は自分がどの程度の無知で愚か者かということにも気づかずに死んでいたかもしれないのである。まあそれはそれである意味幸せなのかもしれないが。

だが僕は気づいてしまったし、少なくとも気づいたような気分にはなった。しかし、人の名前もろくに思い出せないようなまるで壊れかけて車検も通らない中古車のように老いぼれかけている今、果たしてこれから人並みに膨大な知識を蓄積できるものなのだろうか。

無理だ。無理無理無理。

しかしここでひとつの疑念が湧く。果たして僕は本当に自分で思っているようにサル並みに途方もなく頭の悪い、無知な人間なのだろうか。僕はサルなのだろうか。だとしたら何ザル? ニホンザル? チンパンジー? ワオキツネザル? コモンマーモセット?

仕方ない。明日目が覚めていたら人間に戻っていることを祈ろう。だが間の悪いことに明日から世の中は3連休なのだった。想像するだに退屈である。俺は連休というものが何よりも嫌いだ。一体どうやったら人並みに休みの間だけ伸び伸びと遊び呆けることが出来るのだろうか。

人並み。なんかそれがトラウマになりそうだ。俺は馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だという言葉が昭和40年代の青春映画のように頭の中にこだましている。俺は頭が悪い何も知らない何一つ分からないし覚えられないし記憶出来ない。サルだ羊だカピバラだ。

それはともかく、母のところで一緒にテレビを見ていたら、どうやら山形は平年であったら11月の18日ぐらいに初雪だそうで、去年は15日にはもう降っていたらしく、今年は比較的初雪が遅いそうだ。今年は雪が少ないといいな。


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木星における虚無的な人生

木曜日。

もう木曜日なのか。なんていうか、人生なんてあっという間だなあ。何もしなくても時は過ぎる。でもそれでいいんだと思う。たぶん人生なんてそんなもんだし、時間なんてそんなものだ。無為に過ごすのもまた人生。それに、ああ何もしたくないと思っている人も多数いるのだと思う。例えば、休むために働くなんていうのもそうだし。ただ大方の人は何もしないというよりはむしろ、好きなことだけして過ごしたいと思っているだろうし、そういう意味では今の僕は決して大方の人の理想形を具現化しているわけではない。

長いこと楽器を弾いてないので指が強張ってきた。じゃあ楽器を弾けばいいのではないかと言われそうだが、それがそうもいかない。とにかく腰が重い。まるで木星に住んでいるのではないかと思えるくらい腰が重い。実際問題として、昨夜気づいたのだが書斎の床に置きっ放しになっているギター用のマルチエフェクターに蜘蛛の巣が張っていた。これは真面目になんとかしなければならんな、とは思ったものの、いまだにそのままだ。こういうときに僕の場合、余計なことを考えてしまう。まず蜘蛛の巣だけを払えばいいのか、それともギターを繋いでエフェクターを使うことによって蜘蛛の巣を結果的に払えばいいのか、というようにどうでもいいようなことを考えて立ち竦んでしまうのである。結果、明日考えようということになり、その明日、つまり今日になってもいまだにそのまま放置してあるというわけだ。

蜘蛛の巣を払ったりギターを弾いたりすることがそんなに大層で大変なことなのだろうか。自分でも理解不能だ。蜘蛛の巣が張っているのを発見したらただちにそれを払って、指がなまって強張っているなと思ったらギターを取り出してスケール練習をするなり、キーボードに向かって弾くなりすればいいだけの話だ。それがどうしてこう、まるで金縛りにでもあっているかのように出来ないのだろうか。改めて言うまでもないが、ここは木星ではなく、地球なのに。

ああ日記を書かなければ。そろそろこの日記の文体を変えたいなあと思っているのだがそれにはあまりにも今の僕の語彙も引き出しも少なく、なら手っ取り早いのは「ですます」にしてしまうとかなのだがそれも面倒だ。

とにかく今日も10時前に起きた。昨夜何時に寝たのか記憶が定かではないが、日記を書いた時間が2時半だとすると恐らく4時近かったのだと思う。いずれにせよ、僕は10時ごろ起きる人になりつつある。これは何かと不都合がある。まず朝ゴミを出すことが出来ない。向かいの人が朝っぱら回覧板を持ってくると起こされる。等々。しかしながら現実には母のいる特養に勤める人であるとか、この山形の片田舎でも夜勤で昼間寝ている人もいるわけで、そういう意味では10時まで寝てもなんら問題はないはずなのだが。

ただ、現実問題として10時に起きると午前中がやたらと短い。朝食後のコーヒーを飲みながらぼうっとしているとすぐに昼になる。起きて2時間で昼食というのもどうかと思うので1時ごろに昼食を摂る。そうすると必定、午後も短くなる。ドミノ倒し的に。で、午後になるとそろそろコタツに移動しようと思い立ち、コタツに入って本を読み始めるものの案の定寝てしまう。なんていうか、コタツというものは誰かと談笑するとでもいうならともかく、一人で入っていると寝てしまうように出来ている。そうとしか思えない。

そうやってふと気がつくともう外は夕暮れなのだった。4時を回るともう暗くなって電気をつける。気分的には何もしないうちにもう電気をつけなければならない時間になってしまったという感じである。5時になると町の中央にある公園のスピーカーから馬鹿でかい音でなんかの童謡のメロディーが流れてくる。9時5時の人ならもうお疲れ様という時間だ。なんということだろう。これがある種一日の終わりを告げるメロディーであるとすれば、なんと虚無的かつ無為に一日を僕を過ごしているのだろう。

などとは考えない。

結局昨日から相場のポジションは持越し、ずうっと塩漬けなので一日気が気ではない。相場のチャートを見るたびに悪い方に想像し、ああどうしようかと途方に暮れる。相場のポジションを日をまたいで持ち越すと、視点の変えようがないし新たにポジションを持てない。しかし、ついにその瞬間はやってくる。すっかり外は真っ暗になった6時近く、ユーロドルがぐいっと下がり、苦心惨憺の末ようやっとちょこっとだけプラスになる。結果的に、一昨日から薄氷を踏む思いで持ったユーロポンドもユーロドルもプラスになった。なんと有難いことか。これが大勢を見誤らなかったからなのか、それとも単にラッキーだったのかはよく分からない。大損をしなかったという点では結果オーライなのだが、いろいろ考えるとこの3日間をほとんど気を揉むだけで無駄に過ごしたという感じはする。反省すべき点は多々。ともあれ、ようやっと決済出来た。すぐに気分を取り直して新たにポジションを取り、これは判断としてまったく間違っていなかったのだがすぐに同値決済になってしまった。これこそ保持していてもよかったのだが、これも結果論。

ポジションをすべて決済した時点で母のところに向かう。本日初めての外出。母は相変わらず落ち着いてはいるが、僕以上に虚無的である。したがって、ただでさえ虚無的である僕は母のところに行くとさらに虚無的になる。しかしそれを母に見せるわけにはいかない。勤めて平静に穏やかに肯定的に接しなければならない。

母の部屋に連れていくとやけに寒いなと思ったらエアコンから温風ではないただの風が出ていた。これでは扇風機をかけているのと同じだ。そこに介護士の女性(例の業務に行くと見かけるおばさん)がやってきたので、寒いからこれだったらむしろ停めてくれた方がいいと言うと、あれこれリモコンをいじっていたものの一向に温風も出ず、かといって停まりもせず。もしかしてこのエアコンは壊れているのだろうか。それで、その介護士の女性がタオルケットでは寒いだろうから毛布ありますか? あったら持ってきてもらえれば、とか言うので僕はちょっとかちんときて、「そりゃあありますけどここに毛布はないんですか? 毛布という概念はないのですか?」と訳の分からない言葉を投げかけた。当然のことながらおばさんは「概念?」と首を傾げた。こういうところが僕は人間が出来ていない。たかが毛布を持ってきてくれと言われたぐらいで、特別養護老人ホームの部屋で介護士相手に観念的な会話をしてもしょうがないのである。

とにかく、帰り際にスーパーに寄って340円の刺身を買って、それで夕飯を食べた。夜は相場の指値がつかず、3日も悪戦苦闘した挙句なのでさすがに今日辺り無理をする気にはなれなかった。それによく分からない。というわけで、夜中まで延々とコーヒーの生豆を煎る。

という具合に虚無的に一日を過ごし虚無的に日記を書くと長文になってしまった。虚しい。だが気にしない。虚無的なので。

今読んでいるのは大学の後輩でもある菊地成孔(サックス)のエッセイ集「スペインの宇宙食」。確かに面白いのだが、なんでこいつは僕が食べたことどころか存在すら知らないような美味いものばかり次から次へと食べているのだろうかと次第に腹が立ってくる。こういう文章って、そこそこ金があってやたらと外食でいいものばかり食べないと書けないよなあとやっかみ半分で思うのだが、とどのつまり、僕という人間はグルメでもお洒落でもないのだった。本質的に。


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