禁煙セラピー

4月17日、金曜日。

9時前起床。そこそこ早く起きたので朝食後出かけようと思って玄関を開けたら外は風があって寒かった。なので外出を止めて暖房をかけて家に篭った。

そんなわけで今日は日がな、ツイッターのフォロワーの人に薦められたアレン・カーの「禁煙セラピー」を読んでいた。夕食後には読み終わったのだけれど、皮肉なことにこれを読んで結果的に今日は煙草が増えてしまった。

著者のアレン・カーは元々会計士だったのだが多いときは一日100本、少ないときでも60本というヘビースモーカーだったのだが一念発起して禁煙に成功、それを機に禁煙のセラピストとなった。

なんで「禁煙セラピー」を読んで煙草が増えてしまったかというと、煙草の本数を減らすのは意味がないと書いてあったからなのだが、実際のところ、僕の経験から言っても1本吸ってしまったら同じというところは理解できる。つまり、所詮オール・オア・ナッシングであるということ。アレン・カーいわく、本数を減らしても苦痛とストレスが増えるだけというのだ。彼は意志の力による禁煙は無駄という。ではどうするかというと、考え方を変える、つまり禁煙を楽しむという意識改革をせよというのだが、つまりはこの本に書いてあるのは禁煙の方法論ではなく認識論であり、したがってアレン・カーは喫煙を洗脳と言い放つのだが要するにこの本に書いてあることを盲信せよというわけで、ある意味逆の意味で洗脳されるぐらい問答無用で彼の言うことを頭っから信じないと表紙に書いてあるように「読むだけで絶対やめられる」とはならないのだった。

それはちと無理。

結局アレン・カーは肺がんで死んでしまうのだが、その辺が実に皮肉というか。いやもちろん、禁煙したからこそそこまで彼は生きられたということも確かなのだろうけれど。

ただ、喫煙する者の心理という面ではアレン・カーの言うところは正鵠を射ている。つまり、煙草を吸ったからこういう利があると考えるのはすべて勘違いであるということ。つまり僕らは煙草という毒物の中毒であって、煙草を吸うための理由をあれこれと後付けしているに過ぎないということだ。実際、何の疑問も抱かずに煙草を平然と吸い続けている人はともかく、ちょっとでも禁煙を考えたり身体に悪いということが念頭にある人なら、誰でも思い当たることなのである。要するに、何のために煙草を吸っているのか、どうして煙草を吸いたいのか、そこのところが吸いながら実はよく分からなくなってくるのだった。というのも、煙草をおいしいはずと頭では思っていても実際吸ってみるとおいしくないのだから。

煙草というのは肉体的にニコチンという物質の中毒でもあるが、それ以上に精神的に強く依存する中毒で、1本吸うともう1本吸いたくなるものなのである。ただその繰り返しに過ぎない。で、夜寝ている間に煙草を吸いたくなるかというとならないわけで、要するに一日の半分は吸わなくても実はまったく平気なのだった。

で、そういうことは日々薄々分かってはいるのだった。にも関わらず、煙草を吸う方が人生が豊かになるという妄想がどうしても頭から離れない。ひっきりなしに吸いたいわけではないが、煙草を吸わないとつまらないと思ってしまう。

アレン・カーはそういった心理はすべて勘違いであるとし、煙草を吸わないということがどんなに素晴らしいことか認識すべきだと言っている。これは実に正しい。正論である。しかしながら、先日2日ばかり禁煙したときにも頭に浮かぶのは煙草を吸いたいということばかりで、禁煙している喜びというものを実感するまでに頭が行かない。それは以前4ヶ月禁煙したときもそうだった。

で、こういう認識の仕方を根本から変えないと、アレン・カーの言うように禁煙出来ないのだろうか。意志の力だけでは本当に禁煙出来ないのだろうか。世の中の大半を占める(ように思える)禁煙に成功した人々は、皆このように意識改革を行えたのだろうか。

この辺がよく分からない。僕のような天邪鬼な人間はそういう風に言われるとかえって反発を覚えてしまうぐらいで、なかなか劇的に煙草に関する認識を180度ひっくり返すということが出来ない。それもそのはずで、身体に悪いだなんだと言われ続けながら何十年も吸い続けているというのは、それなりに喫煙にもいいところがあるはずだという思い込みを繰り返してきているからだ。これをひっくり返すのは容易なことではない。つまり、禁煙するということは人生に於いて何かを捨てることのように思えてしまうのである。

これがいかんのだ、とアレン・カーは言っていて、その点は実にもっともだと思う。

彼の意見によると、僕が今やろうとしているようにちょっとずつ本数を減らしていってフェイド・アウトするというのはナンセンス、ということになる。そうなのかなあ。山崎はそうやって煙草を止めたと言ってたけどなあ。

だが確かに、1本吸ってしまうともう1本吸いたくなり、結局元に戻ってしまう。実際、今日はもう14本、現時点で昨日よりも1本多い。減るどころか増えてしまっている。それはまあ、先々週辺りと比べると3割ぐらいは本数が減ってはいるのだが、それと禁煙というのは根本的に異なる。結局のところ、どういう理由づけであるにしろ、どういう方法論を取るにしろ、アレン・カーの言うようにどこかできっぱりと吸うのを止めるしか手はないのだった。

というわけで、いつかは止めます、煙草。

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それはそうと、昨夜寝床で気づいたのだがいつの間にか(たぶんOSをアップデートしてから)、iPhoneが入力変換出来なくなった。漢字どころか濁音・半濁音すら変換出来ず。そもそも変換候補も何も表示されないのだからどうしようもない。電源を入れ直したりすべてリセットしたりあれこれやってみたのだが今のところお手上げ。音声入力でしか入力出来ない。明日サポートに電話して訊いてみようと思う。まあ基本的にカメラとしてしか使っておらず、後はWiFi端末としてちょっと使う程度で入力することはあまりないので気づかなかったのだが。

母の鼻声はようやく直った。町内の桜も大分咲いてきたので、天気予報を見て、明後日の日曜日に一時帰宅を申し込んでおいた。

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問題はないらしいのだが

4月16日、木曜日。

一昨日よく眠れなかったので昨夜はまた睡眠薬を2錠飲んだ。すると、春眠暁を覚えない感じで二度寝三度寝していたのだが、9時前に回覧板で起こされた。

で、ようやっと意を決して県立中央病院の循環器科の診察を受けた。あれこれ理由をつけて先延ばしにしても妄想が膨らむだけなので。それで、心電図の検査を受けたのだが結果は問題なし。というわけだから、肺も心臓もとりあえずは問題ないということになった。今日の循環器の医者は、煙草を吸って調子が悪くなるのだったら止めればいいじゃん、と言っていたのだけれど、なんていうか、これですっかり安心したわけではない(何しろいまだにそれなりに調子が悪いので)が、禁煙する意欲は後退してしまった。ヘビースモーカーに戻るつもりは毛頭ないのだが、細々と吸い続けたいみたいな気持ちがふつふつと。こういうのって甘えなのだろうか。10本ぐらいだったらあと10年ぐらい吸ってもいいんじゃないかなーみたいな。と言いながら現時点で既に13本と、なし崩しになりそうな雰囲気もあるのだが。

結局のところ今回の動悸や息苦しさ、胸の詰まる感じや痛みはどこに原因があるのか分からず、もしかしたら精神科の医者が言及していたように心因性のものなのかもしれない。だが11本目まで来ると調子が悪くなるところをみると、確かに煙草に起因しているような感じは受けるのだが。もうちょっと厳密に検査すればどこか炎症は起こしていると思う。そんなわけだから、呼吸器と循環器の両方で特に問題はないと言われてもどこか手放しで安心する気にはなれない。実際問題としていまだに調子はよくないのだから。かといってひとまず考えられる医者には一通り診てもらったわけだから、これ以上延々と原因を究明し続けるというのも無理がある。

病院の帰りにドトールに寄って昼食。隣接している書店でポール・オースターの「オラクル・ナイト」を購入。冒頭を立ち読みしてどうしても読みたくなった。帰宅するとアマゾンに注文していた柳美里「貧乏の神様」とアレン・カー「禁煙セラピー」の2冊が届いており、積読の本が溜まる。

日中は暑かった。羽織っていたヨットパーカーを脱ぐくらい。外気温は17度から18度だったが、体感的には20度は超えていた。今日のところは山形も東京と気温は大差なかったようだ。日が落ちると寒く感じるが。

夕方はなんか落ち着かなくて風呂の掃除をしたり、脱衣所とかトイレとかあちこちを掃除したりする。しかし、心臓が問題ないと言われたせいもあって、最近の中では比較的精神的にはマシな方だった。

母はようやく鼻声が治りかけている。今日は風呂にも入ったようだった。

母のところから帰宅後、夜はJリーグの柏対鹿島の試合をテレビ観戦。相場は小遣い稼ぎ程度。今日は病院に行ったことでなんか一仕事した気になり、あとはなんとなく一日が過ぎた。

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陽気と鬱屈

4月15日、水曜日。

ずうっと毎日睡眠薬を飲んで寝ているので、このまま一生飲み続けるわけにもいかないと思ってなんとかそこから脱しなければと思い、いつも2錠飲んでいるのを昨晩は短期型の1錠だけにしてみた。すると、ひっきりなしに夢を見るし、トイレにも起きるし、やたらと目を覚ますしで、あまり寝た気がしなかった。例えば7時の寺の鐘の音とかでも目が覚める。そんなわけだから本日は睡眠が足りない感じではあった。

今日は日中やけに暖かく、朝食後に業務に行ったのだがセーターにスタッフジャンパーでは暑かった。とはいうものの帰宅すると北向きの台所はひんやりと涼しくてどういう恰好をしたものかと思ったが、ズボンを冬ものから普通のカーゴパンツに穿き替え、セーターを春物に着替え、ヨットパーカーを羽織った。日中はそれでちょうどいいくらいだった。

ぽかぽかと暖かいので散歩に出た。昼間は晴れていたのに散歩に出るころには天気が曇り始め、風が出てきた。それでも寒くなかったところをみると、かなり暖かい陽気だったのだろう。今日はいつもの散歩コースと方向を変えて旧家が立ち並ぶ通りを抜けて小さい川沿いを回った。僕の住む町は駅もない片田舎の小さい町だが、かつてはこれでも城下町だったので3・4軒ほど続けて昔の武家屋敷のような大きな屋敷が並んでいたりする。かと思うとほぼ廃屋があったり、営業しているのか分からない潰れかかった店があったり。川沿いを歩くと右手には廃工場があった。

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そんな感じで1時間ほどかけて歩く。帰宅すると叔母がやってきて、赤飯と煮物と昆布巻を持ってきてくれたので夕飯はそれで済ませる。

夕食後に母のところに行くと、今日はソファに座っていたもののまだ鼻声だった。しかしこのところの母の精神状態はかなりいい。ときおり笑顔を見せる。

夜はまた煮詰まる。どうにも何も出来なくなる。どうやら抑うつ状態っぽい。昼間は暑かったくらいなのに夜になると寒く感じるが、さすがにもう暖房は入れず、ひざ掛けをかける程度。どうも最近は鍵盤を弾く気になれず、台所でギターを手にして久しぶりに曲を作り始めるものの、Bメロの途中まで書いて煮詰まる。どうにも集中力がないし落ち着かないので頓挫。どうも最近は体調の悪さばかりに頭が行っていたけれど、よくよく考えてみればずうっと抑うつ状態が続いているような気がする。かといって安定剤を飲む気にもなれない。

相場は昨夜から持ち越したポジションが功を奏して、昨日の大敗分を取り戻してお釣りが来た。

昨日病院に行ってどうやら肺は大丈夫と言われたものの、相変わらず動悸はするしときどき胸がちくちくと痛んだりするので気になっていまだに安心出来ない。気は進まないがやはり循環器で心臓を診てもらった方がいいのだろうか。嫌だなあと思うものの、かといって例によってあれこれ悪い方に想像してばかりいても切りがない。

今日は日中比較的最近の中では体調がそんなに悪くなかったせいか、煙草をやたらと吸いたくなりこれは増えそうだなと思ったのだが、ここまでのところ12本。ちなみに昨日も12本だった。もしかしたら今日はあと1本ぐらい吸ってしまうかもしれないが。

そういえば今日は前述のように寝不足気味だったのに昼寝しなかった。というか、この2・3週間、体調が急に悪くなってからというもの、昼寝しなくなった。いいのか悪いのか。しかし睡眠薬を2錠飲まないと熟睡出来ないようでは困ったものだ。

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Rest of my life

4月14日、火曜日。

県立中央病院の呼吸器内科を受診してきた。11時前に病院に到着、受付に問診票を出して動悸が酷くてというと、動悸だったら心臓の方で循環器内科ではないかと言われて、えっと思ったけれど、血液内科の医者から話をしてもらっている旨を伝えてとにかく呼吸器内科で診察を受ける。しばらく待たされてようやく診察の順番が回ってきた。医者は2月に撮ったCTの写真を見ながら、確かに肺気腫ではあるがごく軽いという。煙草を吸っている人がこれぐらいの年齢だと大体こんなもんだと。血中酸素を計るが問題なし。聴診器で心音も聴いたりしたものの、特に問題はなく、今日で診察は終わりということ。結局肺がんどころか覚悟していたCOPDでもなかった。肺気腫にしてもそれほど気にするほどではないということだ。もちろん、なるべく煙草は止めるように言われた。気になるようだったら都合のいいときに循環器も受診すればよいとのことだった。

病院の帰りにドトールに寄って昼食。これで一安心というところなのだろうが、なかなかピンと来ない。結局のところ、急に体調が悪くなったので妄想ばかりがどんどん悪い方に広がったということなのだろう。しばらくして、ようやく取り越し苦労だったのだと思う。しばしぼんやりして、さて残りの人生をどう生きようかなどということを考える。

帰宅してふと思ったのは、今日の診断というのは2か月前のCTの写真を見てのことであって、体調が急に悪くなったのはこの2・3週間のことだから果たして今日の診断を真に受けていいのだろうかとまたぞろ疑念が湧いた。だがそれを言い始めると切りがなく、要するに僕はいささか病気に対して被害妄想的になる傾向がある。いずれにしても一番気になっていた肺気腫にしてもそれほど進んでいるわけではなく気にする必要はないとのことだから、ひとまず安心してもいいのではないだろうか。とすると、問題は動悸とあちこちに感じる痛みだが、どうも精神科医が言っていたように心因性の要因もありそうだ。恐らくあまりにも過敏になり過ぎていたのだと思う。

そんなわけでようやっと少しほっとした分だけ気が緩んだのか、煙草が増えてしまった。で、不思議なことに今日の診察結果を聞いたら煙草を吸ってもそれほど具合が悪くならない。人間なんてゲンキンなものだと思う。だが、せっかくここまで本数が減ったのだから、予定通り徐々に減らしていずれ禁煙しようとは思う。

それはともかく、夜は相場でボコボコに。ストップを食らいまくる。確かに迂闊だったが、指標結果からするとちょっと納得がいかない部分も。

母はいまだに鼻声のままだ。今日も夕方から雨。

なんだかまだ完全にはほっとし切れていない。どこかまだ気持ちがふわふわして。どうやったら本当に安心できるのだろう。

そういえば今日はW杯アジア2次予選の組み合わせが決まった。日本はE組、シリア、アフガニスタン、シンガポール、カンボジアという組み合わせ。楽勝でしょう。全勝でお願いします。

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雨の月曜日

4月13日、月曜日。

曇り、のち夕方から雨。暑いぐらいだった昨日から比べると寒く感じた。業務から帰宅後、ずっと暖房をつける。室温自体はそれほど低いわけではないのだが、なんだかやたらと寒い気がして。どうも最近は寒いと暑いしかなく、真ん中のちょうどいいというのがない。

前述のように結局今日も業務に行ってしまったのだが、日中は不安感強く、とにかく精神状態が悪かった。夜になって少しは落ち着いたけれど。今日は間欠的にやたらと煙草が吸いたくなり、どうも増えそうだなと思ったら、ここまで昨日より1本多い9本(昨日は結局8本だった)。ひとつには体調が少しだけマシになったということもある。その分煙草を吸いたくなってしまう。だがやはり煙草を吸うと動悸がする傾向にはある。夕食後母のところに行って帰宅してから7本目を吸うと、その後1時間ぐらい経つと猛烈に煙草が吸いたくなり苦労した。で、8本目を吸うと強烈な吸いたいという衝動がなんとか治まる。この辺は昨日と同じ。なんとなく徐々に一日に吸える煙草の上限が減っては来ていると思うのだけれど。なかなかすぱっとやめられない。精神的に不安定だと余計そうだ。

今日の母はまだ鼻声のままだったが、昨日同様ときおり笑顔を浮かべて表情はよく、話すこともしっかりしていた。それが救いだ。早く母の風邪が治ってくれるといいのだが。あんまり母の表情がいいのでiPhoneで写真を撮って母に見せると、スマホをほとんど触ったことのない母は、偶然タップしてスライドして驚いていた。

夕方と夜は相場。それなり。

夜、ジョー・ヘンダーソンの70年のライブアルバム、”Joe Henderson Quintet at the Lighthouse” をYouTubeで聴いて、改めて物凄いカッコいいと思う。これ、CDを買おうと思う。特にエレピのGeorge Cablesがやたらとカッコいい。

さっき煙草を吸ったのでまた動悸がする。今日はもう吸わない。明日はいよいよ県立中央病院の呼吸器内科で診察を受けようと思う。体調が悪い悪いと言いながらいつまでも先延ばしにして、悪い妄想を膨らませてもしょうがないだろう。正直言ってホントに気が進まないのだけれど。

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4月12日、日曜日。

というわけで、本日午前10時47分に煙草を吸ってしまい、一昨日の夕方からの禁煙は1日半で終わった。1本吸ったらどうなるのかと思ったが、結局今日はここまで8本吸ってしまった。やはりなし崩しになるのか。ただ、考えようによってはついこの間までは20本以上吸っていたのだから劇的に減ったと言えないこともない。しかし、やっぱりここは禁煙が台無しになってしまったと考えるべきなのか。さっきまでHと長電話しても思ったのだが、この辺は実に微妙なところである。

相変わらず今日もいろいろと考え過ぎた。終いには煙草が生き死にと同意義のように思えてきて、生きるとは何かというような思考回路になってしまうのだからこれはもうどうにも答えが出るわけがない。とうとう煙草を吸ってしまってから業務に行ったのだが、途中から業務をやる意味を見失ってしまい、一体こんなことに何の意味があるのか、という具合になんでもかんでも根源的な疑問と化してしまう。そんなわけで1時半過ぎにはいたたまれなくなって止め、朝食用のパンが切れていたのでスーパーに買い物に向かった。

スーパーの駐車場に車を停めて、今日はやたらと暑いことに気づく。やけに天気がいいし、買い物をする前に少し散歩をしようと思い立ち、そのままスーパーの裏手の田んぼの中の舗装もされていない農道(あぜ道)を最上川の堤防の方に向かって歩いた。

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空は晴れ渡り、暑くて途中から革ジャンを脱ぎ、セーターの袖をまくった。何もかもが曖昧に思えた。一体僕は何をやっているのだろうと歩きながら思った。結局道は堤防まで通じておらず、引き返した。スーパーの帰り道、近所の家の庭の桜が開花していることに気づいた。

3時過ぎに精神科の予約が入っている。何時ごろになるか事前に電話したところ、4時に来てくれということだった。それで、ほとんど待たずに済んだ。基本的にうつ病の診察ではあるのだが、ここ最近の話というのは2・3週間前ぐらいからの急激な体調の悪化と禁煙の話ぐらいしかない。それを話し、もしかしたらCOPDじゃないかと思うのですがと僕が言うと、医者は穏やかな口調ながらまるでCOPDであることが当然であるかのように話し、それどころか肺がんの可能性まで口にした。それで僕の思考ベクトルは一気に悪い方に傾いてしまった。

医者の帰り、寺に寄って昨日の三回忌の引物を届ける。見ると、寺の境内の桜も咲いている。昨日は気づかなかったので、今日の陽気で咲いたのだと思う。

先ほどの医者の何気ない話ぶりで、帰宅後は頭の中が肺がんかも知れないということで一杯になってしまい、ちょっとしたパニックに陥りそうになった。医者が言ったのはあくまで可能性のひとつにしか過ぎないし、大体において1月にCT検査を受けたばかりなのだが、そのときの僕は肺がんだったらどうしようということしか頭になかった。その恐怖感が治まるまでは少し時間がかかった。食欲もないのだが、医者に痩せたようだから今日から栄養状態に気をつけるようにと言われたばかりなので、なんとかスーパーから買ってきた刺身で夕飯を食べる。まあ医者が言うにはこれでは駄目でもっとマシな食事をしろということなのだが。

7時近くに母のところに行くと、いつもの食堂(ホール)のソファに母がいないので部屋に向かうと、途中の廊下で職員に今日は鼻声で風邪をひいているようだと言われる。部屋に行くと、やはり母は酷い鼻声だった。話を聞いてみると、昨夜熱が7度5分ばかり出たという。母の表情自体はむしろよくて、話す内容も今日はとてもしっかりしていたのだけれど、何しろ僕自身の精神状態がよろしくないので必要以上に心配になる。もう熱は下がっているということなのだが、後ろ髪を引かれる思いで母のところを後にする。

帰宅後、Jリーグの鹿島対新潟の後半を見ながら、ようやく肺がん恐怖症は少し治まってきた。だがどこか心もとなく、誰かに電話したくてしょうがない。もちろん、電話してどうなるわけでもないとも思う。あれこれと電話してみるが繋がらない。しょうがないので久々に学生時代のサークル仲間であるWに電話をしてみるが、気のせいか酷く感じが悪かった。それで同級生女子のOさんと話し、それからHと話した。それで根本的に今の状況が解決するわけではまったくないけれど、一人で考えているとこのところの傾向として悪い方、悪い方にしか頭が回らないので、そういう意味では誰かと話すことで少しばかり客観的になることは出来る。しかし、考えてみれば不安に駆られるたびに毎日毎日誰かに電話をするというわけにもいかないのだった。

いずれにしても火曜日には県立中央病院の呼吸器内科で診てもらうしかないのだろう。正直怖い。とても怖い。何か理由をつけて先延ばしにしたいというのが本音。まったく、今の僕は精神的にとても脆い。

それはそうと、禁煙はどうするのだ?

どっちにしてももう新たに煙草を入手するつもりはないので、机の引き出しに放り込んである17・8箱がなくなったらその時点でオートマチックに禁煙になるはずなのだが……。そういうことで果たしていいのだろうか。

急に暖かくなり桜が開花した日、右往左往するばかりなり。

それで今何を考えているかというと、寝る前にもう1本煙草を吸おうと思っているのだ。まったく救いがたい。

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三回忌、非禁煙宣言

4月11日、土曜日。

今日は父の三回忌を11時から行うので念のために9時にアラームをセットしておいたがさすがにその前に起きた。朝食後の珈琲を飲んでいると9時半過ぎにドアチャイムが鳴り、何かと思ったら弟がもう仙台から着いて、予定より早いのでびっくりした。もっと11時ぎりぎりになるかと思ったが。今回弟は奥さんと次男を連れてきたので総勢3人。それ以外の叔父、叔母、いとこの奥さんの親戚3人も11時までに揃った。

住職は11時ちょい過ぎにやってきてまず自宅で読経、それから寺に移動して本堂でまた読経。ひととおり読経が終わると、それではご焼香お願いしますと言われて、順番は僕からなのだが立ち上がったはいいものの一瞬頭が真っ白になり焼香ってどうするんだっけ? 状態に突入、礼をするのも忘れ、しばし呆然と立ちすくんでしまった。まったく馬鹿げた話だが、本当に焼香の仕方を忘れてしまったのである。何故か頭には「焼香=線香」というイメージしか浮かばず、一体どこに線香があるんだという一瞬パニック状態、それから目の前にある抹香をつまんでくべればいいのだということにようやく気づく。この間が一体どれぐらいの時間だったか、たぶんせいぜいが十秒か二十秒ぐらいだろうが随分長く感じられた。結局住職に対して礼をするのも忘れて席に戻り、次に弟が焼香するのを見て、ああそうだった、こういう風にやるのだったと思い、なんでこんなことを自分は忘れてしまったのだろうとしばし唖然とした。最近度忘れも多いがときおりこういったエアポケットみたいな忘れ方をすることがあって焦る。

その後墓にお参りして新しい卒塔婆を置き、うちの近所の料理屋に移動して会食。住職は山形で葬式があるというので会食には欠席。どうも体調が悪いせいもあってまたなんかやらかすんじゃないかと思っていたら、座敷に座るときに上座に座ろうとして叔母に下座に座るようたしなめられた。これもなんでそうしたのか、一度ネットで調べて法要では下座に座ると覚えたはずなのだが、確か四十九日と一周忌のときは叔父に言われて上座に座ったような記憶があり、それでつい迷いながらもそうしてしまっったのだけれど、そうすると上座に座ったという記憶自体が怪しいことになる。

とまあボーンヘッドを連発。こうなると自分自身をまったく信用出来ないのだけれど、まあ後はただ談笑しながら食事をするだけなのでなんとか無事に終わる。

会食を終えて帰宅すると2時近く。しばらく弟一家と茶の間でテレビを見て、3時ごろになって弟一家は母のところに寄ってそのまま仙台に帰宅。一人になるとどっと疲れが出て、また体調が怪しくなってきた。夕方になって茶の間のテレビでJ2のセレッソ大阪対金沢の試合を見ていたのだが動悸と息苦しさが半端なく、胸が痛くなったりするのでこのまま心臓が停まるのではないかと思ったり。あんまり具合が悪いので寝ようと思ったが寝れなかった。結局台所のテーブルに戻るとなんとかなるので、例によってコタツで寝ようとするとかえって具合が悪くなるという奴だったのかもしれない。いずれにしても、昨日からいまだ禁煙をしているのにも関わらず、やっぱり動悸や息苦しさはちっとも変わらない。

久しぶりに昼から分不相応な豪勢な食事をしてしまったのでいつまで経っても一向に腹が減らないし、動悸がして体調が悪いので食欲もない。かといって食べないわけにもいかないので、8時半ごろに簡単な夕飯を済ませる。しかし、今日のように外の料亭でいっぱしの料理を食すると、いかに普段の僕の食事が粗食であり貧しい食事なのかというのを思い知らされたような気がする。今後はもう少し食事にお金を使ってもいいんじゃないかなあとぼんやりと思う。

それはともかく、ときおり間欠的に物凄く煙草が吸いたくなる。もう本当に吸ってしまおうと何度も思う。頭の中が禁煙のことで一杯になり、何も手につかなくなる。あまりにも考え過ぎて、次第に形而上学的というか、観念的になっていく。例えば、余命半年と言われたら好きなだけ煙草を吸うだろうし、余命三十年と言われてもやっぱり煙草を吸うだろうな、とか、煙草を吸ってもいいのだという理屈をあれやこれや考え始める。ここで1本吸ったらどうなるだろうかとあれこれ考える。1本吸ったら気が楽になるだろうかと。そこからまた再度禁煙を始めればいいんじゃないかと。一方で、そうするとまたその翌日になって同じことになってしまうんじゃないか、結局なし崩しになって元に戻るんじゃないかと思うと、ここで我慢した方が楽でめんどくさくないとか、もう頭の中がそういう思考でああでもないこうでもないと溢れかえってしまう。

もう本当に何も出来ないのだ。窮屈なことこの上ない。なので、一度禁煙そのものを止める宣言をしようと思う。かといって、喫煙宣言をするわけではない。実際、昨日禁煙宣言してから30時間以上経過しているがまだ吸っていない。だがしかし、禁煙を宣言してしまうとあまりにもそのことに縛られてそれしか考えられなくなってちとどうにもならないのである。だからここはひとつ、便宜上禁煙を取りやめ、特に禁煙しているわけではないということにしたいと思う。もしかしたらそのために今晩1本ぐらい吸ってしまうかもしれない。しかしながら、基本的に煙草を止めるという方針自体は変わらない。まあ、あれこれとただ言い訳しているだけのような気もするが……。

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禁煙宣言

4月10日、金曜日。

本日午後6時27分に吸った6本目の煙草をもって、禁煙することにした。台所の煙草と灰皿を片づけ、書斎にある煙草を全部引き出しの中にしまった。それから、ツイッターとフェイスブックで禁煙宣言をした。

もう体調的にどうにもならなくなったのである。正直言って、これ以上は身の危険というか、生命の危険を感じた。動悸と息苦しさが酷過ぎて。もう禁煙してから6時間ぐらい経つが、まだ動悸と息苦しさは治まらない。いろいろ調べてみて、先日亡くなったレナード・ニモイの死因でもある、COPD(慢性閉塞性肺疾患)の可能性もあるなと思った。ウィキペディアには「死より恐ろしい病気」と、まるで客観性を欠いた(いささか無責任な)主観的表現で書いてあり、かなりぞっとする。とにかくここまで危機感が募るとさすがに放置しておくわけにもいかず、来週の火曜には病院の呼吸器内科に行こうと思う。

禁煙宣言をした直後からストレスで肩が物凄く凝って、終いには頭痛までしてきた。母のところにも長くいれなかった。ずっと心臓がどきどきして、今にも死んでしまうのではないかと気が気ではなかった。夜になって夕飯をなんとか食べると肩凝りは少しマシになったものの動悸は酷くなる。身体がしんどいのでなんとか吸わないで我慢出来そうだと思っていたのだが、動悸がして精神的にストレスを感じると今までの習慣で闇雲に煙草が吸いたくなる。頭の中に「ストレス=煙草」と刷り込まれている。そこをなんとかこらえられたのはそれだけ体調が悪いということであってあまり喜べない。胸が詰まる感じがしてときどき軽い痛みすら覚える。息苦しさが抜けない。

とりあえず危機感から発した禁煙宣言、正直言って何日どころか何時間続くかと思っていたが(失敗したらそこからまた禁煙を始めればいいと思っていた)、どうやら今日は無事我慢出来そうだ。問題は明日の朝、朝食後を我慢出来るかどうかだが、正直言ってこの息苦しさでは吸いたくても吸えない。

最後に吸った煙草(今のところ)は、やっぱり美味しくなかった。最後だと意識して味わおうと思ったのだが、それでも美味しくなかった。

明日は父の三回忌、それで今日の午後に隣町の叔母(母の妹)が花を持ってきてくれて、茶菓子まで買ってきてくれた。弟も花を買ってくるというので、とりあえず僕が買わなければならないものはない。準備は一通り済んではいるが、あまりにも体調が酷いので無事こなせるかどうか少々心配になる。それだけ動悸と息苦しさが酷い。かなり深刻。禁煙という一世一代のことを成し遂げられたとしても、それではい健康ですというわけにもいかないので。何しろ35年も吸い続けてきたのだから、実際問題として今日止めたからどうの、ということはないと思うものの。

ああそれにしても動悸が酷い。

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我が妄想

4月9日、木曜日。

晴れ。昨日ほどではないがやっぱり寒い。

今朝はゴミ当番なのでアラーム使用で7時45分起床。ゴミ当番といっても箒を持って収集車が持ち去らずに置いていかれたゴミがないかどうか確認してくるだけで、これまで何か問題があって置いていかれたゴミがあったのは一度しかない。今日も何もなし。ただゴミ置き場を見てきただけ。

2日続けて8時間ぐらい寝た後での6時間睡眠は少々眠かったが、気がつくと今日は昼寝をしていない。なんだか最近は昼寝をするという思考回路にならない。これはいいことなのだろうか。

早起きしてしまったのであれやこれや考えて煮詰まる前に業務に行く。なんだかんだいって業務に行くとあれこれ考え悩む必要がない。ただ昔と違って意欲はないのでそれなりに業務自体にストレスは感じる。最近はセコく結果が出ているので我慢する。3時まで。

帰る足で寺に寄り、明後日父の三回忌をやるので墓の掃除をした。恥ずかしながら、考えてみれば箒で掃いて雑巾で拭くというような墓掃除をやったのは初めてだ。真ん中の新しい墓の裏に父の名前を見つけ、父は自分で建てた墓に自分が入ったのだなあと感慨をあらたにする。そして、僕もこの墓に入るのだろうかと思う。

帰宅後、4時過ぎになってどういうわけか猛烈に空腹を覚えた。確かに少々早起きしたがそのせいとも思えず、菓子パン1個で昼食を済ませたせいだろうか。食欲が増すドグマチールは飲んでいない。とにかく急激に腹が減って5時を回るころにはあまりの空腹にギブアップ寸前となり、もう今日は早めに夕飯を食べようと思った。かといって何かを作る気にもなれず、久々に次年子の食べ放題の蕎麦を食べることに。七兵衛そばに電話をしてやっていることを確認してから車で出発。すると、20分も走って大石田町に入ると道の両脇に雪がまだ残っていて、さらに山の方に向かうと辺りはすっかり雪景色になった。さすがに道自体に雪はないが、もう普通タイヤに替えてあるのでちょっとビビる。

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なんていうか、風景がちっとも春じゃない。冬に引き摺り戻されたような気分になる。

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というわけで七兵衛そばに到着、ひとつしかないメニューの盛りそばは食べ放題である。大根汁にそばつゆを入れて食べる。あんなに腹が減っていたのに、男性の標準と言われる3杯頼んだのだが食べ切れずに少し残してしまった。壁には「そばは残さないでください」とあるのに。食べ終わって店の外に出ると辺りは薄暮に覆われ、数匹のコウモリが鳴きながら飛び交っていた。

その足で母のところに直行。到着すると母は食堂(ホール)のソファに横になっていて、何事かと思って職員に訊ねると、母の左足がむくんだためだという。見てみると、本当にすっかりむくんでいる。このところ渡してある弾性ストッキングを穿かせていなかったせいだ。職員に母が静脈血栓であることを話して弾性ストッキングを毎日穿かせるように頼む。

母のところから帰宅後、NHKで今日から始まったドラマ「かぶき者慶次」を見た。うーむ、「慶次」というのは隆慶一郎の「一夢庵風流記」を漫画化するに当たって読者に分かりやすいようにそう表記したのであって、前田利益の通名は慶次郎である。まあそこは百歩譲るとして、藤竜也ではその慶次郎のイメージじゃない。前田利益はまず腕っぷしが強そうじゃなければならず、豪傑に見えなければ。

夜、気がつくと昨日とまったく同じ時間に11本目の煙草を吸っていることに気づく。昨日は結局15本だった(15本目は3分の1ぐらいしか吸えなかったが)。今日は少々早起きした方なのである程度しょうがないといえばしょうがないが、毎日決まって11本目の煙草で物凄く調子が悪くなる。もうほとんどお約束みたいなものだ。今さっきこの日記を書くのがしんどくなって台所に行って本日13本目を吸ってしまったけれど、12本目以降はただ惰性で吸っているだけでもう胸は詰まるわ手は痺れるわただの具合の悪い人であり、煙草を吸っても煙草を吸っている気がしない。実際、今の煙草を吸っては体調が悪くなるようになってからというもの、いざ吸ってみるとそれまで吸いたい吸いたいと思っていた煙草を吸っている感じがしないのである。もはや、僕にとっての喫煙というものは、頭の中の願望が作り出した妄想となりつつある。何故自分が煙草を吸いたいのか、吸っているのか、もうさっぱり分からないのだった。ただ朝から晩まで煙草を吸いたいとひたすら思い続け、もう一方では吸ってはいけないとひたすら思い続けている。一日中その両極の思念が綱引きをしている。それだけで頭が一杯だ。だが実際問題として11本目で極度に具合が悪くなって以降はまったく頭が回らなくなる。結局のところ、僕の願望というのは煙草そのものが吸いたいというよりも、煙草を吸うことが平気になりたいという、まるでこれから煙草を吸い始めようという高校生のような発想に近いような気がする。どこかに煙草を吸っても大丈夫なんだと思い込みたい自分がいて。なんかそれはある種の憧れ、憧憬のようなものだ。そんなわけで僕の中では煙草はもう煙草の葉を紙で巻いたものではなくて、何かの象徴のようになりかけている。つまり、煙草を吸える人間こそが健康なのだというような、本末転倒なイメージ。本当に妄想化してそれに憑りつかれているかのようだ。これでは禁煙出来ないのも当たり前のような気がする。

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なし崩し

4月8日、水曜日。

9時半過ぎ起床。昨夜寝たのは1時半だから、8時間ぐらい寝たことになる。昨日に引き続き今日も寒い。今日は全国的に寒かったようで、千葉で雪が降ったらしいので驚く。山形は晴れていた。

せっかく順調に減っていた煙草だが、今日は増えてしまった。現時点で14本。何故だろう。本数が増えないように業務にも行ったのだが。しかし、考えてみれば煙草を吸い過ぎないように業務に行くという考え方自体、煙草を吸うものと思っているのだからしょうがない。煙草のせいで体調が悪いとある意味思い込んでいるわけだけど、身体のあちこちが調子が悪いような気がして、それがいちいち気になる。例えば歯だとか、首の付け根辺りだとか、胸だとか、そこら中がちくちくと痛む。それが全部煙草のせいというような気になってしまっている。終いには、最近とみに視力が落ちて目が悪くなったなあと思っているのだが、それすら煙草のせいではないかと思っていて、これではまるで強迫性障害である。実際、日中左目がかすむ気がして物凄く気になり、この町で一軒だけの眼科に初診を受けるにはどうしたらいいのか問い合わせの電話をしたぐらいなのだが、目がかすむと思ったのは実はメガネが汚れていただけという、ちょっと笑えない話になっている。

こんな風に体調に関して妙に神経質になってしまってストレスが溜まり、それで煙草を吸ってしまうという本末転倒な感じ。一体どうしたら煙草を止められるのか、禁煙出来るのかと考えるに、要するに吸わなければいいだけということに気づくのだが何しろそれが途轍もなく難しい。ように思える。頭の中でぐるぐると渦巻いている煙草を吸いたい吸いたいという欲求をどうやって抑えればいいのか。

とにかく感覚的にというか、体感的に日に日に身体中のあちこちが具合悪くなっているような気がする。そういうものは以前だったらいちいちそれほど気にしなかったものが大半で、多分に被害妄想的になっているのだと思う。

体調に対して過敏になっているとあらゆることにストレスを覚える。毎日母のところに行くのもしんどくなってきた。今日は母がぽつりと子供たちの世話にならないために老人ホームにいなければならない、というようなことをこぼしたのでいたたまれなくなり、どうしても我慢出来ないようだったらうちに帰ってこいと言ってしまった。本当にそうした方がいいのかもしれないと思った。多分にそれは現実的に無理があり、僕という個人の生活が成り立たなくなるかもしれないが、それでも僕が無理をすべきなのではないだろうかと思った。胸が潰れる思いで母のところから帰る。

夜になって相場をやるのにも疲れて、途中でもういいやと早々に利食いしてしまう。後になって早まったことに気づくのだが。

いろいろ少々投げやりになり、そういえば契約しているhuluを先月はほとんど見なかったことに気づき、ドラマ「Utopia ― ユートピア ― 」の1話を見た。オフビートでエキセントリックで非常に面白い(先が読めない)のだが、続きはもう少し精神的に余裕のあるときに見たい。

明日の朝はゴミ当番なので今夜は早く寝ようと思っていたのだが、これから寝床で本を読むと昨日と同じぐらいの時間になりそうだ。そういえば今日も安定剤を1錠飲んでしまった。なんかいろんなことがなし崩しになっていく。

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