孤立と喪失

12月29日、月曜日。

着々と世界から孤立しつつある、という気がする。もしかしたら気のせいかもしれないし、そうであって欲しいとは思うのだが。

ずうっと昨日の日記のことが気になっていた。あんなこと書くんじゃなかったなあとうじうじと考えた。後半部分だけ削除しようかとも思った。だがもう手遅れだ。これでたぶん僕はまた何人かの友人を失うかあるいは不愉快な気分にさせてしまったのだろう。単に自分が気に入らないということをこんな場所に書くべきではなかったと反省したのだが、いまさら削除したりしたところで少なからぬ人(まあこの日記の読者は非常に少ないが)はもうこの日記を読んでいないだろうから、すべてはもう手遅れなのだなと思った。それに、いつかは書いてしまったことだろう。何度見ても考え直しても、気に入らないものは気にいらないしおかしいと思うものはおかしいのだから。宗教あるいはある種のドグマ、もしくはイデオロギーの類(この場合は神秘主義だが)にハマっている人をいくら批判したり痛罵しても、当の本人はまったく聞く耳を持たないだろうし気にも留めないだろう。それがハマる、盲信するということだから。だから本質的にあんなことを書いてもまったく意味はなく、ただの憂さ晴らしに過ぎないのだ。そして書いた当人である僕自身にとってメリットは何もなく、ただデメリットしか残らない。残念でした。僕はただ自分自身の中にくすぶっていたものを吐き出したに過ぎない。それで何か爽快感でもあるなら別だが、嫌な感じが残っただけだった。

こうして僕はいろんなものを失っていく。

いつもなら電話に出る幾人かの人間に繋がらないのもそういった喪失の一環だと思っていた。しかしヨウタロウが電話に出ないのはどうやら紅白に出る準備をしているからのようだ。と、本日紅白の出場歌手一覧を見て思った。

有難いことに今日も雪は降らなかった。何度寝かして9時過ぎに起き、今日も業務に行き、今日もツイていなかった。本日は映画を見ておらず、代わりに本を読んだ。夕方台所で本を読んでいると胃の辺りが重くなって気分が悪くなり、またテーブルに突っ伏して少し寝てしまった。恐らく遅い昼食後に食べたポテトチップスのせいだと思う。お蔭でちっとも食欲がなく腹が空かない。

日が暮れてから今日も母のところに行く。恐らく世界で今僕を必要としているのは母ただ一人だけだから。しかしながらたった一人でも自分を必要としてくれる人間が存在することに感謝したくなる。

夜はYouTubeでJim O’Rourkeのアルバムを3枚立て続けに聴きながら本を読む。執拗な反復、果てしない継続、断片的な分かりやすさと総体的な不可解さと曖昧さ。ラリってでもいないとかなりヘビーではあるがどこか懐かしく、学生時代のロック喫茶や深夜喫茶を思い出す。

年内は相場をやらないと宣言したのだが、どうやら欧米では今日から実質的に年明けになるというので一応指値だけしておいたら夜になって忘れたころにひとつ成立して少しプラスになった。

というわけで、ニック・ホーンビィ「ア・ロング・ウェイ・ダウン」読了。4人が代わる代わる独白するというスタイルのせいか、いささか饒舌に過ぎた感。それと訳のせいかはしゃぎ過ぎに思えるし彼の作品としては少しユーモアの方向性がずれている気が。もう少し一貫性が欲しかった。

そういえば業務の帰りに郵便局に寄ろうと思ったら駐車場が一杯で諦めた。そんなわけでいまだに年賀状を出せていない。

このところ、毎晩梅酒を飲んで酔っ払っている。これを書いている今もそう。不思議なことに、ビールひと口飲んだだけで真っ赤になる筈の僕が、真っ赤にならない。何事も慣れということなのか。ということは、いつかこの孤独にも慣れるのか。


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凍るタオル、KFC

12月28日、日曜日。

何度寝かして9時前起床。予報どおり、朝から快晴。大変結構。しかし、こういう日の方が朝晩は冷える。洗面所で顔を洗うと、昨夜入浴時に使ったタオルが凍っていた。

今日は暖房をつけていてもなかなか広い台所が暖まらない。どうしようかしばらく考えた挙句、一週間ぶりに業務に行ってみた。もう年末休みだし日曜日だしさぞかし混んでいるかと思いきや、そうでもなかった。しかし今日はツキがない。1時半ごろにヤメ。で、昨日から今日の昼食は隣町まで遠征してケンタッキーのフライドチキンを食べようと思っていた。なんでかっていうと、ツイッターのTLでKFCのチキンを絶賛する人がやけに多かったからだ(クリスマス絡みで)。そんなわけで手帳にも忘れないようにKFCと書いていたので、いささか面倒だなと思いながら車で隣町のイオンへ。で、カウンターで注文しようとするとどれを頼んだらいいのか分からない。実を言うとこれまでKFCではチキンフィレサンドとかその類しか頼んだことがなく、チキンだけとなると一人分の分量の検討がつかない。僕が悩んでいると店員が指差して今はこちらがお勧めですというのでそれでいいですと頼んだ。990円。高いなあと思いながら。ひとまず席について袋を開けてみると、骨付きが4ピース、それと別の袋に骨なしがいくつか。どうやら多過ぎたのかなと思いながら骨付きを全部食べる。骨なしまでは食べられなかった。で、美味しかったのかというとやたらと脂っこい鶏を食べたという印象。こんなものなのかなと思う。

食後の一服をするために喫煙席があるサイゼリヤ(同じイオンの中にある)でカプチーノを飲みながら本を読む。休日の午後は家族連れが多くどうにも落ち着かず、本にも集中出来ない。どうやらこの遠征は失敗だったかなとぼんやり思う。帰りがけ、スタンドに寄ってガソリンを入れたら、一時期よりもリッター辺り20円ぐらい安くなっていた。

どうもチキンを食べ過ぎたのか夕方になっても今日は腹が空かない。huluでデヴィッド・フィンチャー監督「ソーシャル・ネットワーク」を見ていたら胃がもたれる感じがして気持ち悪くなってきた。一時停止してまたテーブルに突っ伏してうたた寝、その後太田胃散を飲む。それから母のところに向かう。

入り口で記帳すると、どうやら午前中に母の友人3人が訪ねてきたようだった。今日の母はそれをちゃんと覚えていてしっかりしていた。8時近くに帰ろうとすると駐車場は物凄い霧で視界が悪く、車のフロントガラスは例によって凍って曇っていた。しばらく暖機運転してエアコンをかけ、煙草を一服してフロントガラスの曇りが取れるのを待つ。帰りがけにスーパーに寄って買い物。

いまだに腹はそんなに減っていなかったがかといって食べないわけにもいかないので帰宅して納豆で夕飯。昼間余ったキチンも食べるとお腹が一杯になる。それから「ソーシャル・ネットワーク」の続きを見る。

「ソーシャル・ネットワーク」、デヴィッド・フィンチャーのいつもの暗いトーンと陰鬱さはなく、全員が機関銃のような早口で台詞を喋るのでむしろ軽快と言っていいほどテンポがよく、見始めるとあっという間という感じがした。しかしながら、その軽快さとは裏腹に友情の崩壊という陰鬱な話であるところはデヴィッド・フィンチャーらしいところか。ま、映画が面白いかどうかは別にして、あらゆるSNSの中でFacebookが一番嫌い。クソだと思っている。ほとんど躁病の集まりとしか思えない。以前fragmentsに書いたMは毎日病的なほど饒舌に長文をやたらと書き込んでいるが、僕には一行も理解できず意味不明、明らかに病んでいるしあっちの世界に行ってるし異様なまでに自意識過剰だ。その僕がまったく理解できない書き込みに皆が「いいね!」を押しているのがまったくもって理解できない。こいつらはホントに彼女の書き込みを理解していいねと思っているのだろうか。だとしたら僕にはビョーキの人の集まりにしか思えない。自閉症の自分の子供が生き神で、自分(つまり彼女だ)の森を奪い合って霊能者たちが罵倒し合ってるとか、揚句の果ては風水がどうのとか、そんなことを嬉々として(つまり不自然なくらいポジティブに)書いている。これだけでも客観的に考えて妄想系の精神疾患、少なくとも極度の躁状態だと思う。医者の診断を受けた方がいいと思うが、大体において人間というのはうつ状態の場合は病気と自覚して医者の門を叩くが躁状態の場合は病気という自覚がないものである。

ここまで嫌いなのだから見なければいいのだが、どうも怖いもの見たさというか、嫌なものほど見たくなるというか、しばしば見に行ってしまう。で、また書いてるとか思う。こうやってますますFacebookを嫌いになる。どう考えてもおかしいと思うのだけれど、もしかしたらおかしいのは自分の方ではないかとか思い始める。かように、Facebookを見るとロクなことがない。確かに僕は人よりテンションが低いのでテンションの高い人は苦手だ。それはツイッターでもそうである。普通の人のテンションがビルの4階ぐらいだとすると、僕は地下1階ぐらいのテンションだと思う。だが前述の彼女はビルの屋上どころか、もはや隣のビルという感じなのである。Facebookの嫌なところは、あんた変だよ、何言ってるのかさっぱり分からんよ、というようなネガティブな書き込みが出来ない雰囲気が充満しているところ。ポジティブじゃなきゃいけないような雰囲気(なにしろ「いいね!」しかないのである)。否を唱えるにはシカトするしかない。そういう意味ではなんと陰湿な世界なのだろうと思う。

大方の人は昨日から9連休なのではと思ったが、年末は皆忙しいらしく、夜何人かに電話してみたが誰にも繋がらなかった。そうすると世の中でヒマなのは自分だけなのではないかと思えてくる。極端なことを言えば、自分だけ違う世界にいるのではないかとか、自分だけ狂気の世界にいるのではないかとか、そういう被害妄想に捕らわれそうになる。ああ危ない。これでは本当に自分の方がおかしいことになってしまうではないか。

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love actually

12月27日、土曜日。

朝起きたら晴れていて、午後になっても天気がよく結局一日中晴れていた。というか、天気予報自体が晴れだったことにようやく気づく。明日も晴れの予報。今日の雪かきは朝の一度だけで済んだ。

あんまり気持ちよく晴れていたので午後、散歩がてら郵便局まで歩いて行ってみる。年賀状を最低限出そうとは思うものの、50円のはがきしかないので切手を年賀はがきと交換するかあるいは2円切手に交換してもらうため。土曜日だけれど普通切手売場ぐらいは開いているだろうと思ったのだが閉まっていた。うーん。このままだと年賀状出しそびれそう。

今日見た映画は2本。なんか最近は映画日記みたいになりつつある。日中はダグ・リーマン監督「ボーン・アイデンティティー」。まったくもって王道のティピカルなアクション映画だった。物凄く面白いわけでも面白くないわけでもない映画だった。

夜はリチャード・カーティス監督「ラブ・アクチュアリー」。この、クリスマスに登場人物ほぼ全員の恋愛が成就して皆幸せになるというコメディ映画を見て不覚にも涙ぐんでしまった。基本的にクリスマスソングとかクリスマスとか大嫌いな筈なのだが。なんていうか、今の自分があまりにも幸せというものから程遠いからかなあと思う。監督のリチャード・カーティスは「ノッティングヒルの恋人」の脚本を書いた人ということでなるほどと。

「ボーン・アイデンティティー」のハッピーエンドは凄く予定調和的な感じがして安直に思えたが、どうして「ラブ・アクチュアリー」の方は素直に感動できたのだろうか。たぶんそれなりの紆余曲折が(英国的)ユーモアを持って描かれているからだろうか。「ラブ・アクチュアリー」も落としどころはとっくに見えていて、そういう意味では予定調和的なのだけれど、落として欲しいところに上手に落としてくれたという充足感があった。

今日は久々にギターを弾いてみたらあまりにも弾けないのでスケール・運指・カッティングと基本練習を少ししたがつまらない。なんていうか、音楽をやろうという意欲自体が欠けている気がする。その後キーボードもちょこっと弾いてはみたが。

たまには今日のように一日晴れてくれると大分気分的には助かる。それでも来週の月曜以降はずっと雪みたいだし束の間。母のところに行った帰りは車のフロントガラスが凍って前がよく見えなかったので気温自体は日が落ちてからかなり低かったようだ。

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東京物語

12月26日、金曜日。

朝方は晴れていて日中は雪が舞うが積もらず、油断していると日が落ちた夕方から積もるというのが最近のパターンになりつつある。今日もそれ。

午前中、と言っても11時だが歯医者の予約が入っていたので念のために9時にアラームをセットしておいて起きた。ずうっと毎日夢を見ているのでアラームで起きたときぐらい夢を見ないかと思ったらやっぱり見た。まあ人間毎晩何百回(200回だったかな?)という夢を見ていて、夢を見たかどうかは起きたタイミングで覚えているかどうかの違いであると何かで読んだ記憶があるけれど。とにかく毎日夢を見る。

朝食後に雪かき。明け方にはそれほど積もらなかったようで、昨晩雪かきしておいて正解だった。歯医者から戻って昼食、その後は煮詰まる。精神状態悪く、とうとう映画を見る気力さえ失ったように思えた。眠気が襲ってきて台所のテーブルに突っ伏してうとうとする。それからhuluでジム・ジャームッシュ監督の処女作「パーマネント・バケーション」を見始めるがこれが恐ろしくつまらない。30分ぐらい見て止めた。中途半端にゲージュツして何かを象徴的に表現しようとしても、結局伝わらなければただただ退屈で鬱屈するだけだ。難解な映画というのは本来存在しないと思う。分かるか分からないかの違いだけ。理解するのが難しいというのは方法論・表現として意図が伝わっていないということに過ぎない。ジョン・ルーリーの音楽も最低。まあ本日の精神状態の悪さもあったとは思うが、とにかく我慢ならなかった。

という感じで挫折したものの、気を取り直して小津安二郎「東京物語」を見た。この映画を見るのはたぶん3度目ぐらいだと思う。で、やっぱりすとんと気持ちのいいところに落ちてくれなかった。皆が絶賛する映画を絶賛出来ないので悩む。そもそもこの映画は気持ちのいいところに落とす映画ではないということなのだろうか。それとも僕の感覚がおかしいのか。原節子にどうにも違和感を覚えて感情移入出来ない。小津は原の演技を絶賛しているが、僕にはどこか嘘臭く不自然に見えるしそれにどう見ても美人には見えない。いずれにしても昨日見た「秋刀魚の味」の方がずっと好きだ。僕には小津が老境の孤独・寂寥に拘っているようにも思えるが、この「東京物語」、家族・親子の関係性を描いたものとしても僕がいまひとつピンと来ないのは、この映画では親子の関係が年を取るに連れて希薄になっていくという風に描かれているものの、自分自身を顧みるとまったく逆だというせいもある。僕自身は子供のころや若いころは親との会話がほとんどなく、年を取るに連れてコミュニケーションが増えていき、親子の関係性という意味では今現在の母との関係がこれまでの人生の中で一番密接になっている。ただふと気がつけば弟との関係性は年を取るに連れて距離が開いていった感じはして、なるほどそういう視点から行けばそうなるのかな、と思えなくもない。いずれにしても人間というのは年を取れば取るほど孤独になるのだ、ということであれば気持ちのいいことではない。なぜなら僕は今、生まれてこの方もっとも孤独を感じているから。この先これ以上孤独になるのは願い下げにして欲しいものだ。

今日は台所の床を拭き掃除したり。灯油が半分を割ってきたので一番安いところに頼もうと電話したら年末は混んでて年明けの5日になると言われ、一応予約はしたものの少々不安なのでいつものところで少しだけ入れてもらった。それでも前回よりリッター10円ぐらい安くなっていた。これは助かる。だが一番安いところだと20円安いのである。

母の調子はそれほど悪くないのだが、気のせいか日一日と老いていっているような感じがする。たぶん自分自身の精神状態のせい、受け止め方のせいだと思うけど。

というわけで梅酒飲んで酔っ払いながら書いております。癖になるとヤバいなあと思いつつ。


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静止画と戦争

12月25日、木曜日。

朝方地震があって8時過ぎに目が覚めた。結構揺れた気がしてそのまま起きてしまった。外を見ると雪は積もっておらず、予報では終日雪だったが朝は晴れていた。玄関の屋根から落ちた雪が溜まっていたのでそこだけプチ雪かき。案の定朝食後にあくびを連発、しょうがないと思ってコタツに入り気絶。すると自分ではうとうとしただけのつもりだったのだがいつの間にか2時間経過、もう昼になっていた。こうして今日の午前中は消滅。

台所に行って昼食。外はいつの間にか凄い雪になっていた。ときどき物凄い吹雪みたいになる。ときおり玄関を開けて外を見るが思いの外積もってない。

そんなわけで昼食後は今日も映画。huluで小津安二郎監督「秋刀魚の味」を見た。秋刀魚はちっとも出てこなかった気がするが。娘を嫁にやるだけで特に何も起こらない淡々とした日常を淡々と描いた映画を淡々と見た。有名な「東京物語」は二度ほど見たがいつもピンと来ず、正直どこがいいのかよく分からなかった覚えがあるが、今回はなんとなく小津のよさが分かったような気がした。気がしただけかもしれない。たぶん僕もそれだけ年を食ったということなのかもしれない。

日中は降り方の割には積もらないなと思っていた雪だが日が落ちた途端に積もり始める。夕食後に母のところに向かうころには10cmぐらい積もっていたが、1時間ほどの間に駐車場に停めた車にはすっかり雪が積もる。この間の積もり方は半端なかった。しょうがないので帰宅後に雪かき。明日も最高気温が0度の予想で雪らしいし、どうせ朝は雪かきになるだろう。母は今日も落ち着いていた。

夜は何を見ようが迷ったがなんとなくリドリー・スコット監督「ブラックホーク・ダウン」を見てしまった。ソマリアの内戦にアメリカが軍事介入したときを描く戦争映画。ずっと戦闘シーンで生きた心地がしない。まったく疲れる映画だった。大体において戦争映画というものは疲れる。なんで見ちゃったのだろうとか後で思う。そもそも戦争映画が好きなわけではないのだ。見終わって若干違和感を覚えるのは、この話はアメリカの失敗を描いた話の筈なのにどこか英雄譚のように見えてしまうというところ。

というわけで、昼間見た映画と夜見た映画の描く世界はまさに対極にあり、天と地ほどの差があった。小津の映画はまるで静止画の連続のようだったが、「ブラックホーク・ダウン」は終始銃声が鳴り止まなかった。「ブラックホーク・ダウン」は実際にあった戦闘を描いているわけでこれも現実。娘を嫁にやる父親がしんみりと感じる寂寥もまた現実というかひとつの日常だ。その落差に少しくらくらする。ソマリアというのはホントに無茶苦茶な国ではあるが、世界中の戦争に首を突っ込むアメリカという国も相当に変だ。

午前中昼寝をしてしまったせいもあるが、結局今日も映画を2本見ただけで一日が終わってしまった。正直こんなことでいいのかなあと思う。欧米がクリスマス休暇になったせいで、やたらと長い年末年始の休みになってしまった。それにしてもまだ12月なのに今年は雪が多い。田舎の実家に戻って来月でちょうど2年、田舎の冬は都合3度目を迎えているわけだが、12月としては雪が多い方だと思う。この調子で雪が積もり続けたら一体どうなるのだろうと心配になるくらい。

明日も一日雪の予報だが午前中歯医者に行かねばならない。


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イヴ

12月24日、水曜日。

終日雨。終日雪よりよっぽどマシ。夜、母のところからの帰り道にはみぞれになっていたので今は雪に変わっているのだろうか。

朝、台所でノートPCの電源を入れるとスタート画面に見覚えのないアカウントがひとつ増えていて焦る。ついそのアカウントをクリックしてしまい、アカウント作成画面が始まってしまいさらに焦り、途中で強制的に電源を切り、再起動してアカウントを削除。ハッキングでもされたのかと思った。もしかしたらどこかいつもと違うところをクリックしてしまったのか。北朝鮮のハッキングが云々というご時勢なので朝っぱらから実に嫌な気分。これまでもグーグルのアカウントに不正アクセスがあってパスワードを変えたりしたことがあるし。

そんなこともあって午前中は気分的に相当に煮詰まる。今日も映画見まくろうとhuluで「探偵はBARにいる」を見始めたのだが、半分ぐらいまで見たところでギブアップ。演技も演出もあまりにも軽く、つまらな過ぎる。「相棒」のスタッフということで最近の日本映画によくある、いかにもテレビのスタッフが撮ったという映画。つまり映画っぽくない。逆に言えばある意味日本の映画っぽいとも言える。冬に雪の北海道を舞台にした映画を見るのもいいかと思ったのだが如何せん、話がつまらな過ぎた。

昼食は先日せっかく叔母にもらったのでとろろ芋を擦っていわゆる山かけご飯にして食べてみる。あっさりしていた。まあ卵かけご飯の代わりにはなる。

ただでさえ煮詰まっているのにつまらない映画に当たってさらに気分が滅入り、しょうがないので午後は隣町の業務スーパーまで買い物に。お茶とか食材を買い溜め。

帰宅して、気を取り直してフェルナンド・メイレレス監督のブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」を見る。ぐいぐいと惹きつけられる。面白かった。リオデジャネイロのスラムを舞台にしたギャング・ストリートチルドレンの抗争を描いていて子供が平気で殺し合ったりするまったくもって悲惨で救いのない話なのだが、これが実話だというのだから恐れ入る。ブラジルというか中南米怖いなあと思う。そういう悲惨な現実を容赦なく描いていて、それでいてポップな映画になっているという。昨日からの、人が平然と殺される映画が何故面白いのかという疑問は続く。

夜は何を見ようか少々迷ったが結局リドリー・スコット監督「グラディエーター」を見た。これも面白かった。2時間半ぐらいある映画なのだがそれほど長く感じなかった。僕にしては珍しく一時停止する回数も少なかった。リドリー・スコットというのは「エイリアン」「ブレードランナー」というような大傑作を撮ったかと思うと凡作を連発したりしてよく分からない監督である。基本は映像美の監督だとは思うが。この映画、ずうっと音楽が鳴りっ放しなのだがあまり気にならない。ローマ時代というその演劇性と、音楽のロール数が多いせいか。昨日見た「皆月」で音楽の使い方が気になったのは同じセンチメンタルなテーマを使い回していたから。スコセッシの「グッドフェローズ」ではずっと歌が流れていたので少々落ち着かない感じはした。「グラディエーター」の場合はどちらかというとオペラの劇伴のような印象。つまり、壮大に構築された演劇を鑑賞しているというイメージ。ある意味とても映画っぽい。

世の中的にはクリスマスイヴ、知らぬ間に「ぼっち」という言葉が流行っているみたいだがそれを言うなら僕はいつもクリスマスなんてほとんど「ぼっち」だった。誰かと一緒にクリスマスイヴを過ごしたなんてこの何十年で数えるほどしかない。元妻と付き合っていたときと結婚していたときぐらいだ。人生の大半のクリスマスは「ぼっち」だった。今年は家に篭っていたせいでくだらぬクリスマスソングを聴かずに済んだことが幸い。クリスマスソングほど憂鬱でうんざりするものはない。

しかし、相場のポジション持ってないとつくづくヒマだなあと思う。昨日宣言したように年内はもうポジションを持たない。母は今日も調子は悪くない。昨日の日記に書くのを忘れたが、昨日の母は一瞬破顔一笑してくれて、それがとても嬉しかった。


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映画日

12月23日、火曜日。午後になるまで今日が祝日だということに気づかなかった。

二度寝して9時45分ごろに起きる。案の定外は雪。朝食後に雪かき。しかし、除雪車がどけていった雪が積み上がって半端ない。かなりの重労働で息がすっかり上がる。うちの塀際はもう雪が一杯で隣の空き地か向かいの寺にしか雪を持って行けず、はて空き地のない隣のうちはどうしてるのだろうと見やると、除雪車がどけた雪をまた道路に戻していた。なるほど。起きたときは昨夜の酒が残っている気配がしたがこの雪かきで抜けた模様。

今日から来週一杯は年末年始というか、欧米に合わせて相場はクリスマス休暇ということにする。よって今日は一日中huluで映画を見ていた。最初に見たのはブレット・ラトナー監督「レッド・ドラゴン」。どうもこれ見たことあるなと思いながら最後まで見てしまった。同じ原作のマイケル・マン監督「刑事グラハム」も見ているから結局トマス・ハリス原作のこの話を都合3回見たことになる。そこまでよく出来た話なのかというとそうでもないのだが。

次に見たのはマーティン・スコセッシ監督「グッドフェローズ」。とにかく異常なまでに(アメリカで)評価の高い映画、確かに面白いのだが四六時中音楽が流れていてまるでPVを見ているようだった。「ゴッドファーザー」もそうだが、アメリカ人てこの手のやたらと人がいとも簡単に殺されるギャング映画が好きだなあと思う。そういう意味では「レッド・ドラゴン」もそうなのだが、こういう平然と無慈悲に冷酷に、無残に人が殺されるものが(フェティシズムではなく)ごく普通に一般的なエンターテインメントとして成立するというか喝采を浴びるというのはどういうことなのだろうかとふと思う。あまつさえ、それに人は爽快感すら覚えるというのは。人間が生来持つ残虐性ゆえだろうかとか考える。

3本目は望月六郎監督、花村萬月原作の「皆月」。あまり期待していなかったのだが思いの外面白かった。しかし、いちいち音楽が被るたびに水を差し、つくづく映画での音楽の使い方って難しいなあと思う。一昨日見た「DISTANCE」のように一切音楽がないと緊迫感があり過ぎて息苦しくなってしまうが、音楽も使い方次第で興を削ぐ。映画監督も音楽のセンスが必要だなと思う。エンドロールで山崎ハコが歌う下田逸郎の曲、どうも聞き覚えがあると思ったらどうやらレコード会社時代にデモテープで回ってきて当時僕が担当だった女性の新人に歌わせようかどうしようかとなった曲のようなのだがいまひとつ記憶が怪しい(つまり僕自身はその曲に乗り気ではなかった)。確か高倉健も歌いたいと言ったとか言わないとか、そういう曲だったような気がするのだが。僕の上司が絶賛していたのだがとにかく僕はフォークというものが嫌いなのだ。いずれにしても今は昔の話である。

やっぱり一日で映画3本も見るとおなか一杯。これぐらいが限界かな。

今日は午後まで雪が降り続き、ときどき外に出て様子を見たのだが、どうやら日中は気温のせいもあって積もらなかった。なので、今日の雪かきは1.5回で済んだ。午後に少し気になるところを雪かきしたので1.5回。夕方には雪は止んだ。しかし日が落ちると途端に気温が下がり、夕食後に母のところに行くと道はすっかり凍結、特養の駐車場も凍っていて歩くと危うく転びそうになる。小一時間ほどいて帰ろうとするとエンジンのかかりが悪く、寒さでフロントガラスが凍っていた。今日の母自体は落ち着いていてとてもまともだった。

しかし、今日は一日中映画を見たものの、これをあと2週間近く続けられるかというと疑問が残る。かといってこれだけ雪があるとどこかに出かける気にもなれず、ちと途方に暮れる。まったく、クリスマスや年末年始なんて憂鬱なだけだ。

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吹雪

12月22日、月曜日。

終日雪。かつての友人で大ゲンカして気まずいまま疎遠になってしまったバービーボーイズのいまみちくんとの関係を修復するという夢を見て9時半ごろに起床。朝から雪が結構な勢いで降っていた。朝食後に1回目の雪かき。雪はまったく止む気配がなく、延々と降り続ける。台所に篭るのも煮詰まってきたので今日は書斎に篭ることにする。が、特に何をするというわけでもない。本腰を入れて大掃除をするつもりはないのだが、気が向いてトイレの掃除とかしてみる。なんとなく午前中が過ぎ、なんとなく相場のポジションを持っているうちになんとなく午後が過ぎ夕方になる。雪は降り続いている。ときどき玄関を開けて様子を見るが思ったほど積もっていない。6時ごろに2回目の雪かき。それからレトルトのカレーで夕飯。で、母のところに行こうと玄関を開けると驚いた。さっき雪かきしたばかりなのにもう玄関先に結構な雪が積もっている。で、物凄い勢いで雪が降っている。唖然。とにかく凄い勢いで雪が積もる。あまりにも雪の勢いが凄いので母のところは40分ほどで切り上げるが、車にはすっかり雪が積もっている。雪を掃いているうちにも積もる。帰り道は凄い吹雪。帰宅後、本日3回目の雪かきをせざるを得ない。とにかく、6時からの雪の降り方、積もり方は凄かった。豪雪地帯を彷彿とさせるくらい。このまま明日まで降り続いたら明日の朝は一体どうなるのだろうかと心配になる。さっき窓から見たら今は小止みになっているようだが。

そんなわけで3回も雪かきをする羽目になったが、今日は背筋痛は来なかった。いまのところ。その代り、ケツと足に来そうな気配。少なくともここまでのところ、去年の同時期に比べると今年はずっと雪が多い。日記と手帳を見たところ、去年の今ごろは毎日往復1時間かけて病院の母のところに通っていたし、驚くべきことに三が日を除いて毎日業務にも行っていたくらいだから。あんまり雪が積もると屋根の雪下ろしまで考えなければならないので気が重い。高所恐怖症だし雪下ろしが怖いのである。滑ったらどうしようとか思う。

夜は相場、しかし欧米はそろそろクリスマス休暇なので無理するべきではないし本来であれば休むべきところ。かなり苦労して結局とんとんぐらいに収める。

相場の合間になんとなく昔の知り合いをググってみる。一年だけいたゲーム会社の同僚、H谷氏の名前を思い出したのでググってみた。すると驚いたことに吉田鋼太郎という今結構売れているらしい俳優と同級生で大親友ということでNHKで一緒に歌っている動画があった。知らなかったなあ。吉田鋼太郎の出た「おしゃれイズム」をYouTubeで見るとやっぱりH谷氏の写真が。で、彼と吉田と小栗旬と3人で飲んでH谷氏と小栗が喧嘩になり小栗が外に出て電信柱を殴ったというエピソードが。H谷氏は会社に入るまで弾き語りをやっていたというのは知っていたが、こういう友人がいたとはついぞ知らなかった。というか、中学時代の親友がいつの間にか俳優として売れたということか。ずっと同い年だと思っていたのだがどうやら僕より学年はひとつ上のようだ。というか、吉田鋼太郎って僕の上智の1年上の先輩(現役入学ならば)だった。中退してるが。なんか昔の知り合いをググるといろいろ出てくる。

それにしても今日の夕方以降の雪は凄かった。真面目な話、先が思いやられる。明日の朝玄関を開けるのが怖い。この調子で降り続けたらどうなるんだろうな。

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二日酔い

12月21日、日曜日。

案の定というか、一日中昨夜の酒が残って気持ち悪かった。ちょっと油断するとこれだ。昨日大丈夫だったからと言って、今日大丈夫というわけではない。とにかく、一日具合の悪い人と相成った。

予報では雪だったが日中はほとんど降らず。ただ、夕食後に母のところに行くために初めて外に出ると、玄関先に屋根から落ちた雪がどっさり。母のところから帰ってからそこだけ雪かき。雪が凍っていたこともあるが、たかがこれだけの雪かきですっかりへばりふらふらに。何しろ今日はずっと気分が悪かったから。それにしても異様に体力がないと痛感。

午前中は昨日の続きで是枝裕和監督「DISTANCE」を最後まで見た。以下ツイートから。

まあ簡単に言えば起伏のない話で少々退屈な映画だった。

午後は気持ち悪くてときおり台所の椅子を2つ並べてうとうとする。すると、知らぬ間に叔母が突然台所に入ってきて驚く。どうやら寝ていてドアチャイムが鳴ったのにも気づかなかったらしい。叔母は米と、いくら僕がいらないと言っても食えととろろ芋を置いていった。

そんなわけで一日具合が悪い中、なんとかアゴタ・クリストフ「ふたりの証拠」読了。「悪童日記」の続編。これもツイートから。

まあこれぐらいならネタバレにはならないだろう。続編としてより、単独の作品としては構造的によく出来た小説ではあるが、どうも「悪童日記」の強烈なストイシズムと冷酷さが見られなかった分、爽快感がなかった。このまま一気に完結編である「第三の嘘」を読んでもいいのだが、ここは一旦もっと気楽に読めるニック・ホーンビィ「ア・ロング・ウェイ・ダウン」を読むことにする。

夜はNHKスペシャルを見ていたのだがいまひとつピンと来ず、途中から「おしゃれイズム」に切り替える。バラエティを見るなんて実に久しぶり。だが途中でやっぱり耐えられなくなり、YouTubeで内田篤人が出たときのを見る。何故かYouTubeで見ると見れる。不思議だ。しかし久しぶりに見ると藤木直人の顔が変わっていて驚く。

それにしても一体どれぐらい飲むと次の日に酒が残ってしまうのか、いまだに加減が分からない。とにかく一旦酒が残ってしまうと丸一日気分が悪くなるので今はさすがにオロナミンCで我慢している。本当を言えばまた梅酒を飲みたいのだが。

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スリッパ、ラーメン、邦画、閉塞

12月20日、土曜日。

ようやく背筋痛が治まった。昨夜はあれから梅酒を飲んでしまったのだが、今日は酒が残っている感じはなかった。先日はどうして2日も残った感じが抜けなかったのだろうか。

というわけでこれを書いている今、梅酒を飲んでいる。

2時半就寝、9時15分起床。酒を飲むと比較的長く眠れる。ような気がする。午前中に弟から電話があり、午後にこちらに来るということだった。それまで何もすることがないので、一週間ぶりに業務に行って煙草を確保する。

2時過ぎに弟が夫婦でやってきた。弟の奥さんにクリスマスプレゼントをもらった。弟夫婦は一瞬だけうちに寄って、母のところからそのまま仙台に帰った。プレゼントを開けてみるとふかふかの冬用スリッパだった。先日実家に戻ってから愛用していたスリッパが一足壊れてしまい、買おうかどうしようか悩んでいたところなので嬉しい。

午後はまた煮詰まって茶の間のコタツで1時間ちょっと気絶。まったく、コタツというものは気絶マシーンだ。

夕方から予報どおり雨。今日はどうも夕飯を作る気がせず、母のところに行った帰り、実に久々に外食で夕飯を済ませた。ネギ味噌ラーメン。念願の(?)外食だったが、実際に食べてみると美味いのか不味いのかよく分からなかった。少なくともスープは物足りなかったし、麺も特に美味しいわけではなかった。要するに美味くも不味くもない凡庸なものを食べたということか。

ラーメンを食べたらどうも胃がもたれる感じがした。帰宅してコーヒーを飲んだら、昨夜は凄く美味しいと思ったのに今夜はどうもそうでもなく、ラーメンを食べた後のコーヒーというのはどうやらあまり組み合わせとしてはよろしくない。印象としてはラーメンて消化が悪い感じがしたがそうなのだろうか。それとも単に僕の胃の調子がよろしくないということなのか。

黒沢清監督「アカルイミライ」を最後まで見たが、意図的に粒子の粗い撮影で撮られたこの映画、特に難しいというわけではないのだがどうも何を伝えたいのかよく分からなかった。終始漂う閉塞感が払拭できないまま終わった感。題名の「アカルイミライ」はアイロニックな意味も含まれていると思うのだがそれにしてもなんかすっきりしない。これでは作った側の自己満足的な映画じゃないかと思う。その昔、日本映画の全盛期を過ぎて全共闘世代になりATG(アート・シアター・ギルド)の映画が邦画のメインになった昭和のころ、洋画に比べると邦画は暗いと言われていた。確かに当時も鬱屈した閉塞感のようなものはあったが、それと同時にそれを爆発させるような発散もまたあった。そういった閉塞感はある種青春というものの象徴でもあった。だから僕はATGの映画は好きだった。しかし近年の日本の気鋭の監督と言われる人たちの作品の多くは閉塞感が腑に落ちないまま、出口が見つからずに終わる印象がある。一方ではテレビ出身の監督のあまりにも分かりやす過ぎるバカ映画があり、実に極端だ。

例えば今は是枝裕和監督の「DISTANCE」を見ているところなのだけれど、まったく音楽が被らないこの映画、とにかく台詞が聞き取りにくい。確かにドキュメンタリータッチでリアリティを追及したい気持ちは分からないでもないが、肝心の台詞が聞き取れないのではリアリティも何も本末転倒だ。第一、物語という点での興を削ぐ。故森田芳光も意図的に役者にぼそぼそと喋らせる傾向があって非常に台詞が聞き取りにくかった。こういうのは演出の問題というよりは純粋にテクニカルな問題だと思う。見るのに(身体的)ストレスを覚えるようでは元も子もない。まあ音量を上げればいいという話もあるが、要するに音楽で言うとミックスでボーカルのバランスが極端に小さくて歌詞が聞き取れないというようなもの。こういうことというのは、作り手がもっと観客としての立場に立たないと分からないことだと思う。要するに独りよがりなマスターベーション的な手法に陥りがちだ。

それとももしかして僕の耳が遠くなったのだろうか。耳のよさだけがかつての僕の唯一の職業的に特化した部分であったのだが。

どうもこのところ、映画にしろ本にしろピンと来ない。今読んでいるアゴタ・クリストフの「ふたりの証拠」も途中まで読んで、あれ、どうも前回(「悪童日記」)と勝手が違うなという違和感を引き摺ったまま。それを言うなら音楽を聴いてもあまりカタルシスを覚えない。つまりは、今の僕自身の精神状態が故なのか。要するにこの閉塞感というのは僕自身が引き摺っているものそのものなのだ、ということなのだろうか。だからラーメン食べてもすっきりしないのかな……。

そういえば今日は終日煙草がおいしくない。せっかく背筋痛が治まったのに明日からはまた雪の予報。今降り続いている雨は明け方には雪に変わるのだろうか。とすると、また雪かきで背筋痛になるのかな。


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