肯定に至るまでの否定

月曜日。祝日。

朝起きて階下に降りると、なんか寒くなったなと感じた。と思ったら、今日の山形の最低気温は0度を下回り、氷点下になったそうだ。

ここ数日、2時半就寝の9時前起床、午後コタツで小一時間昼寝というのがパターン化しつつある。これが果たしてどれだけ健全でどれだけ不健全なのか、さっぱり見当がつかない。まあちょっと前の、とにかくトータル足し算で8時間睡眠、うち3時間ぐらいは昼寝というパターンよりは夜まとまった睡眠が取れている分ましだと言えなくもない。

相変わらずコタツでうとうとすると物凄く悲観的になる。不安というよりも恐怖を覚える。どうもこれはパターン化しつつあり、パニック障害の予期不安みたいになっている。その余波でそれ以降しばらく強い厭世観に悩まされる。ほぼ絶望する。

昨夜日記を書いていて、肯定こそがすべての鍵であると思った。自分自身と自分の人生を肯定することこそがゴールなのだと。つまり、バカボンのパパの「それでいいのだ」こそが究極の至言であると。だが一夜明けて夜になると、実際はまるで逆の、徹底した否定に陥ってしまうというのは実に皮肉なことだ。午後コタツで昼寝するたびにすとんと否定の底まで落ちてしまうのだから困ったものだ。底まで落ちてしまうと後は落ちようがないから上がりそうなものなのだが、これが井戸のように一度落ちてしまうとなかなか這い上がれない。肯定へ至る道はなかなか険しい。

今日は朝食後、しばらく考えた挙句業務に行ったのだがまったくツキがなく、昼過ぎにはギブアップ。昨日から持ち越した相場のポジションは一旦プラスになったところで決済して、その後逆にポジションを取ったのだがこれが夜になって今現在裏目っているところ。上手く行かないものだ。

夜、昨日の続きで原田眞人監督「突入せよ! あさま山荘事件」をなんとか最後まで見たが、ただ怒号が飛び交うだけの駄作だった。原田眞人はときどきびっくりするような傑作を作るものの、作品にムラがありむしろ駄作の方が多い。ハードボイルドを演出させると上手いのだがヒューマンドラマ系はどうも凡作になる傾向。この映画も脚本の軽さが裏目に出ている。

なんか日記書いてたら急激に眠気が襲ってきた。猛烈な眠気。なんだろう。風呂に入る前に久しぶりにちょこっと階段の昇降をしたせいか。明日の午前中はようやく歯医者。


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歯と肯定

日曜日。

朝、朝食を食べ終わりコーヒーを飲もうとしたらぽろっと差し歯が取れた。予期していたとはいえ、かなりのショック。まるでこの世の終わりのような気分に陥る。意識的にはまず外見的に自分が赤塚不二夫の漫画に出てくる貧相なオヤジのような面相になってしまったと思い込む。特養に入所してからの半年で、根っことはいえ6本か7本も歯を抜かれた母がずっと歯のことを気にし続けていた気持ちが分かる。歯というのは、それだけでうつ病発症の一因になってしまうようなものなのだ。意を決してトイレの鏡で見てみる。すると、かろうじて正面の前歯ではないので見た目のインパクトは思ったほどではなかった。だが情けないことには変わりない。抜けた歯を見ると、どうやら10年以上前にも一度抜けて付け直してもらった歯のようである。今回も無事元通りにくっついてくれればいいのだが。

それでも人間というのは慣れるもので、夜になるころには歯が一本ないという状態にもようやく慣れてきた。しかし、見た目云々よりも夕飯を食べるときに気になって食べにくくてしょうがない。どうしても歯が抜けた方で噛む気になれない。

そんなわけで朝から何かと気分的には憂鬱な一日、夕食後に母のところに行った以外はひたすら家に篭って映画を見ていた。午前中に昨日アマゾンに注文したノートPC用のスピーカーが届く。あんまり早いので驚いた。確かに小さくてノートPCで使う分にはいい大きさなのだが、何しろ1500円かそこらの小型スピーカーなので低域が足りないのは予想通りだったが、音を出してみると1.5kぐらいの音域を意図的にフォーカスされていて、ハイハットとかのシンバルが妙に前に出過ぎて音楽を聴くのには向かない。ノートPC備え付けのスピーカーよりはマシという程度。それでも台所やコタツで映画を見る分には十分という感じ。こうして比べてみると同じ低価格のスピーカーでもデスクトップに使っているCreativeのT12がいかに抜群に音がいいか分かる。

ただこのT12、ACアダプター電源なので移動するには少々面倒くさく、今回購入したロジクールのスピーカーはUSB電源なので移動に関しては便利。

というわけで午前中からコタツで映画を見始める。最初に見たのは昨日「クラッシュ」が衝撃的だったポール・ハギス脚本の「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド監督)。これもアカデミー賞の作品賞を受賞した作品だ。だがこちらは「クラッシュ」のような納得のいく終わり方ではなかった。前半と後半の違いがあまりにも落差があるし、尊厳死というテーマも重い。そもそも、納得のいく尊厳死などというものは存在するのだろうか。それはあくまでも当事者の視点でしか存在しないのではないだろうか。第三者的視点で納得がいく、腑に落ちるという風にはどうやっても持って行けないテーマなのではないか。「クラッシュ」の脚本があまりにも巧緻を極めたものであったので、どうにもこちらの映画は理不尽な結末に思えてしょうがない。

「ミリオンダラー~」はhulu、つまりノートPCのストリーミングで見たのだが、本日2本目の映画は以前録画してあった石井裕也監督「舟を編む」をテレビの大画面で見た。こちらも日本アカデミー賞を総なめにした映画、三浦しをんの原作は本屋大賞を受賞。そもそもが辞書の編纂という地味な話であることもあるが、特に劇的な展開や起伏があるわけでもなく、淡々と話は進む。こういう映画はキャラクターや雰囲気がとても重要だ。松田龍平演じる主人公は少々デフォルメされ過ぎている感が無きにしも非ずだが、それなりに見ている間なんとなく幸せな気分に浸れる映画ではあった。物凄く面白い話でもないし、物凄くよく出来た映画というわけでもないのだが、そういう気分に浸れるというのは、恐らくいい人しか登場しない映画だから、ということが大きいのではないだろうか。おまけに誰も理不尽で酷い目に遭ったりしない。たぶんここに描かれているのは幸せのひとつのかたちなのだと思う。だから見ている僕らもなんとなく幸せな気がするのだ。こういう人間や人生というものを肯定する話はとても後味がいい。逆に「ミリオンダラー・ベイビー」の後味があまりよくなかったのは話を肯定しきれないからだと思う。そういえば昨日見終わった「イングリッシュ・ペイシェント」のラストと「ミリオンダラー・ベイビー」のラストは似ている。

夕方までに2本も映画を見てしまったが、かといって今日は他にすることも思いつかず夜になって遂に3本目の映画に突入。今度はまたhuluで原田眞人監督「突入せよ! あさま山荘事件」を見始めた。が、さすがに疲れて途中まで。僕がこれまで一日で一番多く映画を見たのは、高校のころにビートルズの3本立て(「A Hard Days Night」「Help!」「Let It Be」)を2回し、つまり6本が最高だが、僕はもう高校生ではない。

今日はなんか本を読む気分でもなく、かといってネット上のニュースを見たりツイッターのタイムラインを日がな追いかける気分でもなかった。要するに『映画なら見れる』という気分だったのである。それはそれで、まったく何をしたらいいのかも見当がつかない日がこのところ続いていたので、昨日今日と映画を見まくっているというのはそれなりに進歩、収穫であったと言えるのかもしれない。

とかく悲観的な気分が続いていて際限なく自分に対して否定的になる傾向にあるので、「舟を編む」みたいな肯定的な話はとても救いになる。気分的に。肯定するということはとても大事なんだなと思う。どうせ本を読むのならそういう話が読みたいものだ。

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Crash On Crash

土曜日。

数日来違和感を覚えてはいたものの昨夜ようやっと気づいたのだが、上の差し歯がひとつぐらぐらしていて放っておくと取れそう。なので今日の午前中に歯医者に電話したら火曜日の予約になったのだが、どうもそこまで持ちそうになくて気になる。

3時半就寝の9時半起床。昼を挟んで2時間ほど業務。2時からテレビでJリーグの鹿島×川崎を観戦。コタツで見ていたらどうも夕方近くなるとオートマチックに眠くなる。また5時ごろまで気絶。とにかく猛烈な眠気が襲ってきてどこか具合が悪いんじゃないかというぐらい。このところ、夕方コタツで昼寝する癖がすっかりついてしまっている。

スパゲッティの夕飯を済ませてから母のところへ。母は昨日からしている入れ歯が合わないらしく、痛くて外しているというような話を介護士としていたら、昨日はお前いたっけ? みたいなことを僕に向かって言い始め、どうやらこれは認知症の初期症状なのかそれとも以前手術後に担当医が言っていたように認知機能障害なのか。かと思うと、僕が米沢の上杉家についてちょっと口にすると、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人のなさぬなりけり」という上杉鷹山の言葉を淀みなくすらすらと言ったりする。

帰宅後、夜はhuluで3日間かけてようやっとアンソニー・ミンゲラ監督「イングリッシュ・ペイシェント」を見終わる。マイケル・オンダーチェの原作(「イギリス人の患者」)は評判になったので読んだもののピンと来なかったが、映画の方はアカデミー賞の作品賞を取ったというので見たのだがとにかくやたらと長いしひたすら退屈な映画だった。超つまらなかった。予定調和的なセンチメンタリズムのメロドラマ。意外なところがどこもないし、主人公にもまったく魅力がないので感情移入が出来ない。オンダーチェの原作も詩人らしく散文詩的なただひたすら情緒に流されるだけの印象だったが、こんなんでアカデミー賞の作品賞なのか。

それで、たまたまその下の方にサムネイルがあった、同じくアカデミー賞作品賞を取ったポール・ハギス監督「クラッシュ」を見始めた(バラードの原作によるクローネンバーグ監督の同名映画とは異なる)。これがとてつもなく面白くて一気に最後まで見てしまった。文句なしに面白い。たぶん今年見た映画の中で一番面白かった。衝撃を覚えるほど巧妙かつ綿密に構成された群像劇。差別、人種問題、多民族国家、犯罪、怒りなどの理不尽なものをただ理不尽なままで終わらせないポール・ハギスの脚本の力量は驚嘆すべき。数多い登場人物もすべて魅力的。これまで知らなかったなんて。とにかく衝撃を受ける。久々に創作意欲を喚起させられる体験。同じ群像劇であるポール・トーマス・アンダーソン監督「マグノリア」はとにかく鮮烈で新鮮な印象(特ににラスト)だったが、「クラッシュ」の方がもしかしたら脚本の完成度、無駄のなさ、洗練度は高いかもしれない。これは同じポール・ハギス脚本の「ミリオンダラー・ベイビー」も見なきゃなと思った。

と、映画に感嘆している間に長野県で震度6の地震があった模様。まったく、日本という国はどこにいても油断がならない。

ところで、昨日はすっかりその理屈っぽさ、薀蓄にうんざりしていた菊地成孔「スペインの宇宙食」だが、一番理屈っぽい部分を通り過ぎたらまた面白くなってきた。要するにこいつはディレッタントなのだなと。

それにしても差し歯が気になってしょうがない。なんとか歯医者まで持ってくれればいいのだが。


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暗転

金曜日。

3時ごろ就寝、9時15分起床。日中は快晴。

日中は書斎に篭ってちまちまと相場をやっていた。あまりに天気がいいので、午後外に出て玄関先の掃き掃除をしてみる。外は思ったほど寒くなく、タートルネックのセーターを着てちょうどいいぐらいの陽気だった。今日こそは何かまともなことをやらねばとfragmentsに文章を書こうと思って書き始めたものの、アイディアがまったく湧かず数行書いて断念、デザインを少々いじるだけに留まる。読んでいる菊地成孔「スペインの宇宙食」も途中からゴダールの話になった辺りから俄然つまらなくなってきた。博識なのは分かるがペダンティックに薀蓄を連発されるとうんざりする。なんでこう映画を語りたがる人は理屈をこねたがるのか。カタカナの単語が多くて意味の分からないものも多く、読んでいる自分が馬鹿なのではないかと思えてくる。まあこれはツイッターとかでも同じなのだけれど。世間の人が物知りなのか自分があまりにも無知なのか、区別がつかなくなってくる。この歳になって、いまさらながら自分があまりにも物事を知らないことに唖然とする。極端なことを言えば、中学生ぐらいから知識的にはなんら進歩していないのではないかと思えるほど。

ところで、菊地成孔を大学の後輩だと思っていたがどうやら勘違いだったらしい。彼の実兄が作家の菊地秀行であることも知らなかった。しかしゴダールをようやっと通り過ぎ、バンドの企画書に至ってすっかり嫌気が差す。こうなるとあまりに博識で才気走っているのは嫌味に転ずる。もう途中で読むのを投げ出そうかと思っているところ。

今日は夕方近くなってまたよせばいいのにコタツに移動、今日は寝ないぞと思って本を読んでいたのだが猛烈な睡魔に襲われ、結局また寝てしまった。目が覚めると時計は5時を回り、辺りはすっかり暗くなっている。この辺から世界は暗転した。

きっかけはECB総裁の講演、弱気な発言で一気にユーロが下落、僕の気分も下落。到底届かないと思っていた指値が成立したなと思っていたら、あっという間にストップに引っかかってしまった。で、よせばいいのに悪い癖が出て逆張り、さらに逆張り。当然事態は悪化する。

ここで母のところに行った。今日も母は落ち着いていた。部屋のエアコンも普通に温風が出ていた。

帰宅するとまたひとつストップに引っかかっていた。僕にしては遅い夕飯をレトルトのハンバーグで食べていると、また指値が成立、これも逆張り。どうも業務で言うところの状態に突入しているのだろうか、自分ではそれほど冷静さを欠いているわけでもないのだが、こういうときはどうも流れに逆らってばかりいる。それでなくてもストップを2発食らっているので日中のセコい勝ちはとっくに吐き出し、本日の負けは既に確定している。

というわけで、どんどん嫌気が差す。夕方の下落以降、というよりもコタツで寝て以降、ひたすら憂鬱な方に世界は暗転し、次第次第に煮詰まっていく。煙草ばかり吸いたくなるが気がつくと最近煙草を吸って美味いと思った記憶がない。夜飲むコーヒーがヘビーに思える。本を読めばストレスを覚える。髭を剃れば使い捨ての髭剃りはやたらと切れ味が悪い。気分転換に久々にギターをちょこっと弾いてみると悲惨なくらいに弾けない。もう楽器弾くのやめようかなと思うくらい。

なんだろうなあ。

考えてみれば、日中暖かな日差しの中で文章を書こうと思ったときから、既に煮詰まっていたのだ。なんていうか、それほど慌てふためいたり焦り狂っているわけではないのだが、どこかぼんやりしているような、頭というか脳が半分しか機能していないような、そんな消化不良な状態でふわふわと浮ついているのかそれとも半分沈んでいるのか分からないようなままに一日が過ぎていった。

相場の暗転とともに思考も暗転した。本を読む→知らない言葉が出てくる→俺は馬鹿だ。ツイッターを見る→自分だけが何も知らない。無知だ。ギターを弾く→上手く弾けない→この先も上手く弾けるわけがない。相場で逆張りをする→俺はサル並みの学習能力しかない。

というような思考回路に陥って、あたかも自分が途方もない無能であり無価値であり世界でも類を見ないほど無知で頭が悪い人間であるような気がしてくる。そして、もしかしたら僕はそれを知らずに何十年も生きてきたのかもしれない。なんという悲劇だろう。滑稽ですらある。一昨年、たまたま首の付け根に腫瘍を見つけなければ、僕は自分がどの程度の無知で愚か者かということにも気づかずに死んでいたかもしれないのである。まあそれはそれである意味幸せなのかもしれないが。

だが僕は気づいてしまったし、少なくとも気づいたような気分にはなった。しかし、人の名前もろくに思い出せないようなまるで壊れかけて車検も通らない中古車のように老いぼれかけている今、果たしてこれから人並みに膨大な知識を蓄積できるものなのだろうか。

無理だ。無理無理無理。

しかしここでひとつの疑念が湧く。果たして僕は本当に自分で思っているようにサル並みに途方もなく頭の悪い、無知な人間なのだろうか。僕はサルなのだろうか。だとしたら何ザル? ニホンザル? チンパンジー? ワオキツネザル? コモンマーモセット?

仕方ない。明日目が覚めていたら人間に戻っていることを祈ろう。だが間の悪いことに明日から世の中は3連休なのだった。想像するだに退屈である。俺は連休というものが何よりも嫌いだ。一体どうやったら人並みに休みの間だけ伸び伸びと遊び呆けることが出来るのだろうか。

人並み。なんかそれがトラウマになりそうだ。俺は馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だという言葉が昭和40年代の青春映画のように頭の中にこだましている。俺は頭が悪い何も知らない何一つ分からないし覚えられないし記憶出来ない。サルだ羊だカピバラだ。

それはともかく、母のところで一緒にテレビを見ていたら、どうやら山形は平年であったら11月の18日ぐらいに初雪だそうで、去年は15日にはもう降っていたらしく、今年は比較的初雪が遅いそうだ。今年は雪が少ないといいな。


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木星における虚無的な人生

木曜日。

もう木曜日なのか。なんていうか、人生なんてあっという間だなあ。何もしなくても時は過ぎる。でもそれでいいんだと思う。たぶん人生なんてそんなもんだし、時間なんてそんなものだ。無為に過ごすのもまた人生。それに、ああ何もしたくないと思っている人も多数いるのだと思う。例えば、休むために働くなんていうのもそうだし。ただ大方の人は何もしないというよりはむしろ、好きなことだけして過ごしたいと思っているだろうし、そういう意味では今の僕は決して大方の人の理想形を具現化しているわけではない。

長いこと楽器を弾いてないので指が強張ってきた。じゃあ楽器を弾けばいいのではないかと言われそうだが、それがそうもいかない。とにかく腰が重い。まるで木星に住んでいるのではないかと思えるくらい腰が重い。実際問題として、昨夜気づいたのだが書斎の床に置きっ放しになっているギター用のマルチエフェクターに蜘蛛の巣が張っていた。これは真面目になんとかしなければならんな、とは思ったものの、いまだにそのままだ。こういうときに僕の場合、余計なことを考えてしまう。まず蜘蛛の巣だけを払えばいいのか、それともギターを繋いでエフェクターを使うことによって蜘蛛の巣を結果的に払えばいいのか、というようにどうでもいいようなことを考えて立ち竦んでしまうのである。結果、明日考えようということになり、その明日、つまり今日になってもいまだにそのまま放置してあるというわけだ。

蜘蛛の巣を払ったりギターを弾いたりすることがそんなに大層で大変なことなのだろうか。自分でも理解不能だ。蜘蛛の巣が張っているのを発見したらただちにそれを払って、指がなまって強張っているなと思ったらギターを取り出してスケール練習をするなり、キーボードに向かって弾くなりすればいいだけの話だ。それがどうしてこう、まるで金縛りにでもあっているかのように出来ないのだろうか。改めて言うまでもないが、ここは木星ではなく、地球なのに。

ああ日記を書かなければ。そろそろこの日記の文体を変えたいなあと思っているのだがそれにはあまりにも今の僕の語彙も引き出しも少なく、なら手っ取り早いのは「ですます」にしてしまうとかなのだがそれも面倒だ。

とにかく今日も10時前に起きた。昨夜何時に寝たのか記憶が定かではないが、日記を書いた時間が2時半だとすると恐らく4時近かったのだと思う。いずれにせよ、僕は10時ごろ起きる人になりつつある。これは何かと不都合がある。まず朝ゴミを出すことが出来ない。向かいの人が朝っぱら回覧板を持ってくると起こされる。等々。しかしながら現実には母のいる特養に勤める人であるとか、この山形の片田舎でも夜勤で昼間寝ている人もいるわけで、そういう意味では10時まで寝てもなんら問題はないはずなのだが。

ただ、現実問題として10時に起きると午前中がやたらと短い。朝食後のコーヒーを飲みながらぼうっとしているとすぐに昼になる。起きて2時間で昼食というのもどうかと思うので1時ごろに昼食を摂る。そうすると必定、午後も短くなる。ドミノ倒し的に。で、午後になるとそろそろコタツに移動しようと思い立ち、コタツに入って本を読み始めるものの案の定寝てしまう。なんていうか、コタツというものは誰かと談笑するとでもいうならともかく、一人で入っていると寝てしまうように出来ている。そうとしか思えない。

そうやってふと気がつくともう外は夕暮れなのだった。4時を回るともう暗くなって電気をつける。気分的には何もしないうちにもう電気をつけなければならない時間になってしまったという感じである。5時になると町の中央にある公園のスピーカーから馬鹿でかい音でなんかの童謡のメロディーが流れてくる。9時5時の人ならもうお疲れ様という時間だ。なんということだろう。これがある種一日の終わりを告げるメロディーであるとすれば、なんと虚無的かつ無為に一日を僕を過ごしているのだろう。

などとは考えない。

結局昨日から相場のポジションは持越し、ずうっと塩漬けなので一日気が気ではない。相場のチャートを見るたびに悪い方に想像し、ああどうしようかと途方に暮れる。相場のポジションを日をまたいで持ち越すと、視点の変えようがないし新たにポジションを持てない。しかし、ついにその瞬間はやってくる。すっかり外は真っ暗になった6時近く、ユーロドルがぐいっと下がり、苦心惨憺の末ようやっとちょこっとだけプラスになる。結果的に、一昨日から薄氷を踏む思いで持ったユーロポンドもユーロドルもプラスになった。なんと有難いことか。これが大勢を見誤らなかったからなのか、それとも単にラッキーだったのかはよく分からない。大損をしなかったという点では結果オーライなのだが、いろいろ考えるとこの3日間をほとんど気を揉むだけで無駄に過ごしたという感じはする。反省すべき点は多々。ともあれ、ようやっと決済出来た。すぐに気分を取り直して新たにポジションを取り、これは判断としてまったく間違っていなかったのだがすぐに同値決済になってしまった。これこそ保持していてもよかったのだが、これも結果論。

ポジションをすべて決済した時点で母のところに向かう。本日初めての外出。母は相変わらず落ち着いてはいるが、僕以上に虚無的である。したがって、ただでさえ虚無的である僕は母のところに行くとさらに虚無的になる。しかしそれを母に見せるわけにはいかない。勤めて平静に穏やかに肯定的に接しなければならない。

母の部屋に連れていくとやけに寒いなと思ったらエアコンから温風ではないただの風が出ていた。これでは扇風機をかけているのと同じだ。そこに介護士の女性(例の業務に行くと見かけるおばさん)がやってきたので、寒いからこれだったらむしろ停めてくれた方がいいと言うと、あれこれリモコンをいじっていたものの一向に温風も出ず、かといって停まりもせず。もしかしてこのエアコンは壊れているのだろうか。それで、その介護士の女性がタオルケットでは寒いだろうから毛布ありますか? あったら持ってきてもらえれば、とか言うので僕はちょっとかちんときて、「そりゃあありますけどここに毛布はないんですか? 毛布という概念はないのですか?」と訳の分からない言葉を投げかけた。当然のことながらおばさんは「概念?」と首を傾げた。こういうところが僕は人間が出来ていない。たかが毛布を持ってきてくれと言われたぐらいで、特別養護老人ホームの部屋で介護士相手に観念的な会話をしてもしょうがないのである。

とにかく、帰り際にスーパーに寄って340円の刺身を買って、それで夕飯を食べた。夜は相場の指値がつかず、3日も悪戦苦闘した挙句なのでさすがに今日辺り無理をする気にはなれなかった。それによく分からない。というわけで、夜中まで延々とコーヒーの生豆を煎る。

という具合に虚無的に一日を過ごし虚無的に日記を書くと長文になってしまった。虚しい。だが気にしない。虚無的なので。

今読んでいるのは大学の後輩でもある菊地成孔(サックス)のエッセイ集「スペインの宇宙食」。確かに面白いのだが、なんでこいつは僕が食べたことどころか存在すら知らないような美味いものばかり次から次へと食べているのだろうかと次第に腹が立ってくる。こういう文章って、そこそこ金があってやたらと外食でいいものばかり食べないと書けないよなあとやっかみ半分で思うのだが、とどのつまり、僕という人間はグルメでもお洒落でもないのだった。本質的に。


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八月の光

水曜日。

ついさっきまでここのサーバが物凄く重くなって繋がらなくなった。今日は日記を更新出来ないかと思った。一体どういうことだろう。相変わらず最近スパムコメント多いので、もしかしてDoS攻撃とかだろうか。困ったものだ。

昨夜寝たのは3時半、で、朝ドアチャイムが鳴って目が覚めた。時計を見ると9時だった。物凄く眠かったので放っておこうと思ったが、結局気になって階下に降りてみると、郵便受けに回覧板が入っていた。もう一度布団に潜り込み二度寝、起きたのは10時近く。やはり眠かった。ところが朝食後は何故か眠気が取れる。

昨夜から結局持ち越した相場のポジション、寝ている間にストップに引っかかったら目も当てられないと思ったがなんとか生き残っていた。だが事態は一向に好転していなかった。こういうときに限ってポジションを数多く持ってしまう。特にいつもはまったく関わらないユーロポンドを気まぐれで持ってしまったのが裏目に出てネックになってしまいまさに塩漬け。終日チャートが気になってしょうがない。かといってずっとチャートを睨んでいてもどうなるわけでもないので、先日からつけ始めた片付けノート、この2・3日何も捨ててないので納戸の物を整理することにする。

雑誌類を束ねたものとカラオケセットを車に積み込み、ゴミ処理場に持って行った。ついでにスタンドに寄ってガソリンを入れ、その隣の蕎麦屋で昼食。

soba

というわけで久々に外食。

帰宅して窓際の一人掛けのソファでフォークナーを読んでいると眠くなり、小一時間ほどうとうとする。最近の傾向として、昼寝が死のイメージと直結していて、うとうとしながらこのまま死んだらどうしようとか考えてしまうので昼寝すると酷い気分になる。ちょっとした予期不安のような感じ。

母のところに行ってから夕食。二日続けて餃子。なにしろ100個もらったので。で、夕食の最中にようやく懸案のユーロポンドを若干プラスで決済するタイミングがやってきて決済。一安心と思ったのだが今度はユーロドルが裏目に。ナンピンしたのがさらに火に油を注ぐ形になってしまう。一難去ってまた一難、一度沈静化しそうになったのだがまた現在事態は悪化中、この後明け方の4時に大きく動く指標があるのだがそれまではとても起きていられないので頭が痛い。どうも日をまたぐとロクなことがない。いずれにしてもある程度の大敗は覚悟しなければならないのか。このままだとまた目をつむって明日まで持ち込むしかなさそうだが、かといって明日好転する見込みは薄いから困ったものだ。損切りするしかないか。

で、フォークナー「八月の光」読了。同じ作者の「響きと怒り」は前半が難解で読むのが物凄いストレスだったけれど、後半一気に物語の収拾をつけるのが素晴らしいなと思った。ところが今作は逆に後半の方が難解だった印象。それで今一つ気持ちのいいところに話が落ちなかったという気がした。全体的にある種のロードムービーみたいな話なので、こういう結末になるのはしょうがないのかもしれないが、もう少しカタルシスを期待していただけに。この「八月の光」、全体的に登場人物が多く、それぞれの視点で綿密にエピソードが書かれている。それが僕には少々書き込み過ぎに思えた。いろんな人物の会話にしてもあまりにも長広舌が多く、思索の描写も少々過多に過ぎるきらい。特に終盤のテンポが重くて難解になった。もっと表現を削ぎ落していればもう少し読みやすくなったのではないかと思うのだが。ストーリーに対して小説全体が長過ぎる。ドストエフスキーもそういう傾向にあるがもっと読みやすい。ただこれがフォークナーのスタイル、文体、手法であると言えばそれまでなのだが。それを読み応えがあると捉えるかどうか。たぶんこれは読んでいる僕の精神状態も関係していると思う。もっと精神的に余裕を持って腰を据えて読めば、いろんな人物が錯綜して重厚に絡み合った作品と読めたかもしれない。

それはともかく、これを書いている最中にもさらに相場の状況は悪化、困った。これでは寝れないではないか。むむむ、もう2時半か。


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退廃

火曜日。高倉健が10日に亡くなったとのこと。

今日は相場で大失敗をやらかしてただいま多大なマイナスに陥りどこで切ろうか頭を抱えている最中、よって日記を書く余裕がないので概略に留める。

どういうわけか7時前に目が覚めたので起きてゴミを出した。頭痛は治まっていた。5時間弱の睡眠だが、午後1時間ほどうとうとしたぐらい。午前中は業務に行ったものの早々に退散、午後は泌尿器科の検診後母のところに寄る。

夜は親善試合、日本×オーストラリア、2-1。前半は完全にオーストラリアペース、日本はパスが繋がらないしミスが目立ち、オーストラリアのスピードに圧倒されているように見えた。が、前半の途中からシステムを香川をトップ下に置く4-2-3-1に替えた途端に攻勢が逆転し、後半はまったく日本のペースに。今野のヘッドで先制点、2点目は森重のアシストから岡崎がヒールで決めるビューティフルゴール。今日の試合で一番驚いたのはこの森重のドリブルだった。終了間際に一番やられてはいけない、途中出場の天敵ケイヒルにヘッドで1点返されてしまう。こういうの、なんとかならないのか。マークしなければならないのはケイヒルただ一人だというのに。それにまったく日本の時間だったのだが。

と書くのが精一杯。さて、この苦境をどうやって収拾をつけたらいいのだろうか。違う意味で頭が痛い。というか、本当に頭痛がしてきそうだ。いずれにしても大敗は免れそうにない。

あんまり寝てないし、もう寝てしまいたいんだがなあ。

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頑張りようのない日

月曜日。

朝、酷い頭痛で目が覚めた。もう10時近かった。途中一度トイレに起きたものの、最近の中では眠れた方である。ここ2・3日朝寒くて目が覚めていたので、昨夜シーツを冬用のボアシーツに替え、羽毛布団を普通の重い掛布団に替えたら結構暖かく、本来なら快適に眠れたはず。

朝食後、頭痛はますます酷くなり、まるで髄膜炎のようにがんがんに頭が痛くなって吐き気がした。危うくトイレで吐きそうになる。最初は寝過ぎで頭痛がするのだろうかと考えたが吐き気までするというのはちょっとおかしい。もうひとつ考えられるのは、昨日から処方されて飲み始めた気分スタビライザーであるラミクタールの副作用。以前同じスタビライザーであるデパケンを飲んで副作用の頭痛に悩まされた経験がある。最低量の半分という少量ながら、どうもそれが一番怪しい。イブプロフェン200mgのアドヴィルを2錠飲む。

とにかく頭痛と吐き気がいつまで経っても治まらず、かといって寝ていて頭痛がしたわけだから寝るのも気が進まない。しかしながらどうにも起きていることすら辛くなってきたのでソファで毛布を被って寝込んだ。

向かいの人が回覧板を持ってきて起こされた。向かいの人は喪服を着ていた。そういえば今日は3時半に近所の人の葬式があるのだった。時間を見るともう3時近かった。延々寝込んだのに頭痛と吐き気は治まらず、葬式に顔を出すのは諦めた。何か食べなければと少量のスパゲティの昼食を食べる。胃のむかつきが治まらないので太田胃散を飲んだ。もしかしたら胃に来る風邪の可能性もあるかと思って熱を計ったが二度計っても熱はなかった。

夕方になっても胃がむかむかして気分の悪さは変わらず、相変わらず頭痛がする。これはどうにもダメかもと思ったが、とにかくちょっとでもいいから顔を出そうと母のところに行く。僕の手が物凄く冷たいというので母はしばらく僕の左手をさすっていた。結局30分ほどで特養を後にし、朝食用も昼食用もパンが切れていたのでふらふらしながらスーパーに寄って買い物をする。帰宅して、買ってきた380円也の刺身でなんとか夕飯を食べる。

夜になっても頭痛は消えない。胃もむかついて気持ち悪い。こんな感じで今日は終日病人、最近にない体調の悪さでダウン。一応午前中に精神科に電話したが担当医は休み、明日連絡をもらうことになったがもうラミクタールは飲みたくない。元来僕は抗精神病薬とか気分スタビライザーはいろんな薬を飲んだことがあるが副作用ばかりで効果があった試しはなく、合わないのだ。

昨日の日記に今日頑張ると書いたけれど、そんなわけで今日はとてもじゃないが頑張れる日ではなかった。生きてるので精一杯。そんな中でも葬式こそ行けなかったものの母のところに顔を出し、一応三食の食事を摂り、それなりに相場でプラスを叩いたのだから結果的には頑張ったと言えるのではないだろうか。

本日3錠目のアドヴィルと2度目の太田胃散を飲み、huluで「イングリッシュ・ペイシェント」を見ていると、11時ごろになって気がつくとようやく頭痛と吐き気が治まっていた。とは言うものの、これを書いている今もまだ万全という感じではなく、微かに頭痛と吐き気の残滓は残っている。まったくもって今日は疲れ果てた。ここまで体調が悪いと、生きているだけで感謝しなければならないのかもしれない。普段体調が悪くない、普通であるということがどれだけ有難いことであるか、改めて分かった気分。


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断片的な一日、グッド・ウィル・ハンティング

日曜日。

精神科医に日中何も出来なくて困っていると話したら誰か電話で話す相手はいないのかと言われた。SNSのチャットでもいいと。結局今日から気分スタビライザーのラミクタールを飲むことになった。

そんなわけなので夜、ドラムのアキヤマに電話してみた。アキヤマは携帯には絶対出ないので固定電話にかけた。ひとつには、1万円以上溜まった無料通話分を消化したいということもある。電話には奥さん(彼女も僕の同級生である)が出た。で、ごめんね、出かけていると言われたので電話を切った。前回彼の固定電話に電話したのは数か月前、土曜の夜でそのときも出かけていないと言われた。実際のところ、今年になってアキヤマとは一度も電話が繋がったことがない。で、これはどうやら居留守を使われているようだと思った。僕らの年代で、家族のいる奴が土日の夜に家族を置いてそうしょっちゅう出かけるなんてことがあるだろうか。それからヨウタロウに電話(今度は携帯。彼は出れるときは出るので)にしてみたが繋がらなかった。今年に入ってキーボードのヤマザキも一度も電話に出ない。かくして、かつての学生時代のバンドメンバーにはホントに連絡が取れない。以前毎日電話で話していたI泉さんに至っては連絡が途絶えてもう2年近くになる。

かように僕は孤独なのである。

それから、huluでガス・ヴァン・サント監督「グッド・ウィル・ハンティング」を見始めた。他にすることが思いつかなかった。どういうわけか吹き替え版しかなく、最近洋画を吹き替えで見たことなどないので最初違和感が凄かったが最後まで見たらいい映画だった。ガス・ヴァン・サントの演出自体は巧くない。音楽使い過ぎで興を削ぐ。しかし、話自体が非常に魅力的だった。マット・デイモンが脚本まで書いているということで改めて見直した。マット・デイモンも共演で共同脚本のベン・アフレックも、先日亡くなったロビン・ウィリアムズもそれぞれ個人的にはあまり好きな役者ではないのだが、映画自体の面白さとは関係ない。欲を言えば違う監督の演出で見たかった気はしないでもないけど。しかしながら「グッド・ウィル・ハンティング」、久々に肩の荷が少し軽くなるような映画ではあった。

それ以外は今日も何も出来なかった。昨日あたりから朝寒くて目が覚めてしまう。まだ11月だから電気敷布を使うのには早いし、気は進まないのだが羽毛布団から重たい布団に夜になってから替えた。

また午前中からコタツで寝てしまう。延々2時間、ときおり目が覚めそうになっては寝るの繰り返し。半分夢を見て、半分起きている半覚醒状態が続き、そういうときは半分起きている頭が物凄く悲観的になりしんどい。これなら起きている方がずっとマシだ。

昼食後、今日も隣町のディーラーに行く。例の車内灯がドアにすると点きっ放しになるので。それで見てもらったところ、なんのことはない、ハッチバックにハンガーが挟まっていた。つまり半ドア状態なので、スウィッチをドアにすると点灯してしまっていたのだった。昨日交換したタイヤを下ろすときにハンガーが引っかかってしまったらしい。

夕刻が近づき、傾いた日に照らされて黒い雲がゆっくりと流れていくのを書斎の窓からぼんやりと眺めていた。改めて庭を眺めているといろんな鳥がいることに気づいた。スズメ、カラス、セキレイ、名前の分からない中ぐらいの鳥。そんな風にぼんやりとしていると頭が空っぽになり、少し気分的に楽になった。時計を見ると4時になりそうな時間、精神科の予約が4時なので慌てて電話してみると4時10分ぐらいに来てほしいとのことだった。

ここで冒頭に戻る。

今日の母は昨日同様かなりしっかりしていて少し安心した。しっかりしていないのは僕の方だ。どこか不安でどこかふわふわとした訳の分からない無力感に捕らわれたまま一日が過ぎてしまう。庭の鳥、隣町の帰りに見た虹、ゆっくりと流れる雲、そういうものの断片的な映像の記憶しかない。一日がどこか曖昧でぼんやりしている。一日を断片的に過ごしている。改めて孤独だなあと思う。もう少し煙草が美味しければ少しは救われるのだが、今日は一日煙草が美味しくなかった。

確かに今日は頑張れなかったが、明日頑張ればいいかと思う。明日頑張れなければ明後日頑張ればいい。そういう風に思うことにする。なにしろ今の僕は何も出来ないあまり、あまりにも頑張ろうという気持ちばかりが先だってしまうから。そうするとどうしても自分自身に対して否定的になる。何も出来ない自分を肯定するのはそれなりに難しいことではあるけれど。

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幸せのあと、21グラム

土曜日。

三度寝ぐらいして9時ごろ起床、なんとか7時間睡眠。今日も午前中何をしていたか記憶にない。ただ手帳には煙草を吸った時刻だけが書いてある。大方、ぼんやりとPCに向かってネットをしているうちに過ぎたのだろうと思う。

1時に予約していたので隣町のディーラーに行きタイヤ交換。終わって2時ごろに帰宅すると弟から電話があり、これから母を連れて来るという。今日の母はとても普通だった。というよりもとてもしっかりとしていた。言うことも筋が通っており、僕は年賀状を出すように説教されたぐらいだ。表情も目つきも凄くまともだった。

3時半過ぎに弟は母を特養に連れていき、そのまま仙台に帰った。僕はそのまま茶の間のコタツでフォークナーを読んでいた。すると、そのうち気分が悪くなりまたコタツで寝てしまった。隣組長が町内会費を集めに来て起こされた。もうすっかり日は落ちていた。気がつくと、僕はまったく何に対しても興味が持てない状態になっていることに気づいた。ふと思い返すと、先ほどまで母と弟と3人でコタツで談笑していたことが最近になく幸せなことだったのだなと思った。父がいない今、残された3人で過ごしたほんの少しの時間。それは弟と母が帰って自分一人になってみると、とても幸せな時間だったことに気づいた。そして僕はその反動というか、ちょっとした燃え尽き症候群みたいな状態になっていた。何かが終わってしまったような、上手く言えないが幸せの後遺症に陥ってしまったような状態。僕はすっかり抜け殻のようになり、ああそれで気分が悪くなったのかもしれないなと思った。

なんとかレトルトのカレーで夕食を済ませてもまったく何もやる気が起きなかった。煙草の本数だけが増える。呆然とPCに向かっていたが、そのうち意を決して(というのも大袈裟だが)先日見た「バベル」がとてもよかったイニャリトゥ監督の「21グラム」をhuluで見た。時間軸が目まぐるしく交錯するので一気に最後まで見れる巧い構成になっている(と言っても僕の場合は2・3度中断したが)。この辺は「バベル」と同じような造りだ。と思ったら脚本も「バベル」と同じ人だった。どうりで複数の登場人物と時間が交錯するという同じ構成になっているわけだ。ただ、「バベル」と比較すると「21グラム」はどこか納得がいかなかった。ただひたすらやりきれない話だった。基本的にこの脚本家(ギジェルモ・アリアガ)の書く話はそういう傾向にあるようだが、「21グラム」に関して言えば救いがなかった。これが「死」に関する話なのか「生」に関する話なのか判然としないところがあった。簡単に言えば、希望と絶望のバランスが上手く取れなかったような感じだ。すとんといいところに落ちてくれなかったという印象。そういった意味でのカタルシスはなかった。ただ目まぐるしいカット割りで最後まで見せる手法は巧いなあと思う。それと、相変わらず音楽の使い方も絶妙。

これを書いている今、錦織がジョコビッチと対戦している。最初風呂上りに見ようと思って台所の暖房を入れていたのだが、最初のセットを1-6で落としたので気が変わった。ところがこの日記を書いている最中に第2セットを6-3で奪い返した。しょうがない、これは見るしかないだろうな。

それはそうと、タイヤ交換に出したら夜買い物に出たときに気がついたのだが車内灯がバカになった。ドアが開いているときだけ点くようにスウィッチを設定しても点きっ放しになってしまう。明日ディーラーに電話しなければ。めんどくさいなあ。

追記: 錦織の試合、台所に行って見始めたら第3セットは既に0-5、あっという間に負けてしまった。僕が見ている間はいいところなしだった。


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